神が宿世の邂逅を導く

何故もっと前世の記憶が無いのだろうと自暴自棄になった事もあった。
ハッキリしたものは何もなく、精々今の自分でない“他の誰か”のものだろうという事だけ。
苦しい。もどかしい。だけど同時に怖くもあった。

まるで開けてはいけないパンドラの箱のよう。
もし蓋が開いてしまって、大事にしまい込まれていた記憶の数々が蘇ってきたら。
“私”は一体どうなってしまうんだろう。
“前世の記憶”に意思を食い破られてしまうのだろうか。
二重人格のように二つの人格が鬩ぎ合う事になるのだろうか。
全てが綯い交ぜになって人格そのものを保つこと自体が出来なくなってしまうのではないか。v
何れにしてもユリアナという人格にとっては良くない事が起こる確率の方が大きいに違いなかった。
私が私でなくなってしまう恐怖と対峙し続けて、それでもこの道を選んでしまった。

求めてしまったのは内に底知れない渇望があったから。
それを後押ししたのは己に強い探求心があったから。
例え私が消えてしまう事になったとしても、この魂が真に求めた冀求ききゅうの先を見てみたいと思ってしまったのだ。
だってこれは私にしか選べない未来だ。前世の己の魂がもう一度と切願したもの。
普通の人間ならばそんなものがあったのかどうかすら覚えていないのだから。
ならば求めてみよう。結果がどう転ぶかなんて誰にも分からない、未知の領域へと足を踏み出してみよう。
けれど私一人ではきっと選べなかったと思う。

今なら、見届けてくれる優しい瞳があるから。
きっとあるべき場所へ、天が導いてくれるだろうから。
この恐怖もきっと、乗り越えて先に進んでいける。



Ep.2



木々に覆われた小高い丘の上、お城のような様相の建物がそこにあった。
隣がゴルフ場になっているようで一面の翠色の絨毯は春の装いで鮮やかで。
白い壁にチャコールグレーの笠を被った部分はまるで教会のようだし、そこから見下ろす景色は正に絶景と言える光景だった。
タクシーから降り立った瞬間から、異世界に紛れ込んだような感覚に捕らわれた。
自身の故郷も自然の豊かな土地だったが、春の訪れを感じるような色彩の色どりは余り期待出来ない北国だ。
また森ばかりでなく丘を見下ろした先には街が広がっている為、此処は季節の装いだけでなく夜も見事な夜景が広がっているに違いなかった。
エントランスホールの天井は高く、敷かれているのは荘厳な装いの大理石。
漆黒の美術的一品たる様相の像が中央に置かれ、天井からは豪華なシャンデリアが幾つも吊るされていて、まるで異空間に放り込まれたかのようで。
此処は間違いなくこの国でもトップクラスの格式高いホテルだろう。

表札になっている黒光りした石碑のような岩には[The Dolder Grand]と刻まれている。
そうか、先ほど入矢が行先を告げていた場所は此処だったのか。
ぼんやりと辺りを眺めていたらその横を颯爽と入矢が歩いていく。
フロントには見向きもせずに奥へと進む彼を急いで追いかけた。

『イリヤ!あの、荷物は…』
『大丈夫だよ。後で部屋まで持ってきてくれるから。』
『えぇ??でも、ホテルの人に何にも言ってな…』
『ハハハッ此処は一流ホテルだから、泊まってる客の顔と部屋はホテルマン皆把握済みだよ。』

心配しなくて良いから、大丈夫さ。
そう言いながら慣れ親しんだ場所を歩いていくかのように迷わずに突き進んでいく。
外から見えていただけでもかなり大きな土地に聳え立っているこの建物は、敷地面積だけでもかなり広いだろう。
ロビーを中心に建物は左右に伸びていて、更に最低でも4階の高さ、塔の部分に至っては6階くらいまで客室があるようだった。
部屋の番号すら知らないのに此処で彼と逸れてしまったら、間違いなく彷徨う事になる。
兎角遅れを取らないように必死についていくしかない。

『…あ、ユリアナ。部屋に向かう前に一つだけ。』
『…??何?イリヤ。』
『無理に思い出そうとしなくて良いからね。』
『……えっ?!でも、それじゃあ…』
『そもそも、大前提として前世の記憶を持ってる事自体が稀なんだ。寧ろ殆どない、有り得ない話だよ。
 だけど君がその記憶を確かめる為に、自分の力で僕に会いに来た。
 分かってると思うけど、世界の頂点を目指したところで誰にだって可能という訳じゃない。
 勿論努力した者が勝ち取れる栄冠である事には変わりないけれど、それだけではきっと得られない。
 肉体、環境、最善を引き寄せる運だって時には必要だ。
 全部起こり得るべくして起こっている事なんだ。
 だって偶然で片付けるには出来過ぎた物語だろ?
 …君が自分で引き寄せた運命だ、なら成り行きに任せればいい。
 無理にあぁしようこうしようって考える必要なんてないよ。
 大体、思い出そうとして思い出せるものなら、とっくの昔に思い出せてるだろ?
 …必要ならば、きっとその時に全部引き起こされる。
 だから、君が無理にしようとする事はないし、出来ない事に心を砕く必要もない。』

今までちゃんと、その道を歩んでこれたんだから大丈夫だよ。
優しく手を引きながら慈しみの色を称えて彼は微笑んでいた。
記憶の向こうの彼は加護を必要としていた幼子だったというのに、今の彼はこれ以上にないほど心強い支えだ。
あぁ…私の中の彼が笑っている気がする。
きっと最愛の息子の成長を喜んでいるのだろう。
もうすぐよ。貴方の愛した人の元へ向かっているのだから。
伝えたかった言葉があるのでしょう?
貴方の言葉で伝えられると良いのだけど…“私達”がどうなるのかはもう天に任せるしかない。


回廊を進んだ先にあるエレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。
この建物の奥に聳え立っていた塔のような一際高く伸びていた所だ。
エレベーター自体も最上階専用のもののようで、入矢がポケットから取り出したICチップの入ったカードキーを翳して初めて扉も開いた。
着いたらそこは目的地だ。ゆっくりと登っていく感覚に、緊張も相まって息が詰まる。

会いたい。

怖い。

会いたい。

もどかしい。

会いたい。

辛い。



会いたいよ、ヴィクトル。



扉が開いた瞬間、声が聞こえた気がした。


降りて直ぐに広がるのは広い玄関ホールのようなエントランス。
対岸の扉を開けばロイヤルスイートの客室があるのだろう。
もうこんな所からあの人の香りがする。
項がチリチリとひり付いている、身体の求めなのか魂の求めなのかは正直分からない。

歩みを進めながら、じわじわと意識が遠のいていくような感覚を覚える。
あぁ、もしかしてこのまま消えてしまうんだろうか。
でも不思議と今まで抱えていた恐怖は感じなかった。
そっと“自分に寄り添っている何か”を感じた、隣にいる彼とは違う何かを。
どんなに凝らしても今まで存在を感じた事がなかった筈なのに…きっと次の“鍵”がもう直ぐそこにあるからだろう。
もしかしたらこのまま“取って代わられる”のかもしれない。
一瞬過ぎったその思考も、次の瞬間にはそうなるならば仕方ないとの所感で想いは収束する。
自分がどうなったとしても、この出逢いを導き最後まで見届けると決めたのだ。
覚悟は既にしてきた。

“扉”の少し前で私は立ち止まった、反応に遅れた“彼”が一歩前に出る。
さぁ、その扉を開ければ貴方の運命が居るわ。ずっとこの時を待ってたんでしょう?
私が一番知ってる、あの激しい感情を何度も共有したんだもの。
溢れ出る涙は許してね、これは悲しみだけじゃないの。
離ればなれになってしまった運命の奇跡の邂逅に出会えた事が、本当に嬉しいんだから。
今なら入矢の気持ちも分かる気がする。

唯一無二の絆を。
決して揺るがない強い繋がりがあるのならば、乗り越えられる事もあるだろう。
結べる糸ならば手繰り寄せよう。
そうすればきっと新しい奇蹟が生まれるだろう。
先に広がるものは誰もが羨むような、素敵な未来に違いない。
大丈夫、輪廻の理ことわりを越えた貴方なら絶対掴める筈だから。
あぁ…だけどどうして雫は止まないんだろう。
ごめんなさい、この想いに何一つ嘘はないのに身体がいう事を聞かない。
引き留めたい訳じゃないの。
本当にもう、大丈夫だから…

どうにかこの込み上げる衝動を抑え付けたくて、私は目を伏せて俯いた。
そのままスッと後ろに下がろうとしたその時。
何かにクッと手首を捕まれて引き寄せられ、驚きに頭こうべが跳ねた。
目を見張ると慈愛に満ちた優しい笑顔の青年が見えた気がした。


入矢がカードキーを差し込んで解錠し、ドアを開けた。
後ろから彼女が付いてきているのを気配で確認しながら奥へと進んでいく。
数メートルの廊下を抜けると広いリビングルームのような空間。

彼以外が立てる事のない扉の音を聞いた。
息子が帰ってきた事を確認したヴィクトルは、背後にいる存在を確認しようとゆっくりと立ち上がる。
言葉が付いて出ない。運命は一目逢えば分かる、既に知っている感覚だと思っていたけれど…
成熟した性を持つ相手を目の前にすると、こんなにも強い衝動があるものなのかと。
主張してくるものは攻撃的で、漂ってくるものは蠱惑(こわく)的で、魅せ付けてくるものは煽情(せんじょう)的で。
一目見て理解わかった。彼女が己の運命だと。
嘗て傍にあった、“あの運命”だと。
入矢の言った通り、本来ならば今生で再び見まみえる事などない筈だ。
だから俺だけがこんなにも、ハッキリと分かるんだ。

姿形は前世の彼と全く違う、寧ろ真逆だろう。
華奢で洗練された女性らしさを表す美しさがあって。
誰もが庇護したくなるような幼さもあって。
だが彼女の滑りには確固たる意志があり、己を更なる高みへと導くことの出来る強さもあって。
同じ魂を持つ者である事は、琴線に触れるこの不可解な心情が感じているだけでなく生き様にも表れているのだろう。
それを、目の当たりにした事によって強い確信へと変わった。


俺以上に彼女の方が驚いているのだろう。見開かれた目には生気がない。
瞳孔が開いていて、意思がそこからは遠ざかっているようだ。
彼女には少ないながらも前世の“勇利の記憶”があったという。
ならばその記憶によって今彼女の意思に何かが起こっているんだろう。
次第に彼女の口が戦慄わななき、発作のように引き攣った声が僅かに上がったその時だった。

爆発的な魅惑の香りが。
俺の心を激しく揺さぶる匂いフェロモンが辺りを埋め尽くした。

『っ…!!ぁ……っ!!ぁぁああああああ!!!』

せりあがってくる何かを押さえつけるように胸元を押さえ、その後悲鳴のような叫声を上げながら彼女は頭を抱えるように膝を崩した。
記憶喪失だった者が確信たる記憶を思い出そうとしてる様に似ているようで、だがそれとは決定的に違うものがあった。
彼女に襲い来るものは痛みではなかった。
怒涛の記憶の嵐。
ほんの数秒の間に数年に亘る“彼”の“あらゆる記憶”が流れてくる衝撃は言葉では言い表せられない。
叫び声を上げつつも少女の状態は放心状態に近かった。
堰せきを切ったように流れ込んでくるものを、ただただ受け止めて。
理解なんて到底追いつく訳もなく、その轟が治まるのを只管待つ他なかった。
どうすれば止まるのだろうかとか、今見えたものがどんな記憶ものだったのかとか。
そんな事すら思い浮かばない、息衝く暇もない状態。
魂が受けるその衝撃と同時に、肉体は反射的に対峙している運命に向けて魅惑を放つ。
元々運命との遭逢(そうほう)に於いては、己の意思など関係なく本能から発情(ヒート)を起こしてしまうものだ。
少女はその小さな身体で二重の衝撃を受け止めていた。

通常であればこの本能から発情(ヒート)は運命を引き留める為の疑似発情(ヒート)とされていて、多少の理性が利くらしい。
(勇利に直接あの時の事を聞いた事はなく、この話は入矢とその番のΩの子から聞いた事だ)
だが彼女の理性は押し寄せてくる記憶の波に遮られていて、制御がまるで利いていない。
充満する芳香は暴力的に本能を揺さぶってくる。
番のいる入矢ですらその強い香りに目を顰めて口許を手で覆っていた。
能力の高い、濃度が高いフェロモンを持つΩである証拠だろう。
油断をすれば直ぐに此方の理性なんて持っていかれてしまう。
それでも少しでも彼女の苦しさが和らげば、意識がこちら側に戻ってくればと思いヴィクトルはその手を伸ばした。
過呼吸のように浅い息を繰り返しているその姿をこれ以上見ていられなかった。

『しっかり…しっかり、するんだ…ユリアナ。俺の声が聞こえるか?』
『ヴィーチャ…多分彼女は、過去の記憶と戦ってる…きっと何かがまた見えてるんだ。
 その取り乱し方は尋常じゃない。疑似発情(ヒート)はそこまで我を取り乱すようなものじゃないよ。』
『そう…なのか?じゃあ、一体どうすれば…』
『僕にも分からない。大体前世の記憶を思い出すって、どういう状態なのか…』
『……っ、あっ…うぅ……っ』
『!!ユリアナ、しっかりす、るんだ…』

番でもないΩのフェロモンでこれだけ僕が苦しいのに――その理由は己の番以外のフェロモンに充てられているからだけど――ヴィーチャはどれだけ耐えているんだろうか。
その辺りは年季の差なのか、あぁそういえば久々にα用の抑制剤を探していたっけ。
20年以上まともに服用していなかったから、逆に言えば薬への耐性が無くなった分彼にはよく効いているのかもしれない。
僕も警戒して飲んでおけば良かったと後悔した。
まさかこれほどとは思ってなかったんだ。
先程より彼女の目に生気が戻った気がする、記憶の波が治まったんだろうか。
心なしかフェロモンも少し弱くなった気がする。

『ヴィ…、ト、る……っ、め……ぁ、い……っ』
『何…?どうし、た…ユリアナ。』
『………ごめっ……、っあ、…さっ……』

瞳一杯に涙を溜めて、過呼吸を起こしてるかのように肺が引き攣ったような症状で呼吸が安定しない。
それでもその唇から謝罪の言葉を必死に零していた。

『なん、で…どうして、謝るんだい…?』
『……っ、だっ…ぇ、…ぉ…がっ…いっ、ぁれなぁ……らぁ……』

殆ど言葉になっておらず、更に息が苦しそうに見える。 今の彼女には逆効果化もしれないけれど、その身体の震えを何とか止めてやりたくて。
そっと優しく、だがしっかりと腕で少女の肢体を抱き込んだ。
背中をゆっくりと擦って、少しでもこの苦しみが和らげばと願いを込める。
その間項うなじから発せられるフェロモンに何度も意識を持っていかれそうになってしまったけれど。
彼女が何かを伝えようとしている、その言葉を聞くまではと精一杯理性で踏みとどまる。

『…っはぁぁ、はあぁぁぁ……はぁぁぁっ……あぁ…。』

少しずつ息が深くなっていく。
肺に空気が漸く行き亘ってきたのか、苦しさに紅潮していた頬も少しずつ本来の色を取り戻していた。
呼吸が軽くなってきたのを確認して、抱きしめていた身体を離してその顔を覗き込んだ。

彼女が浮かべていたその表情に度肝を抜かれた。
顔の造りの何もかもが違うというのに、その表情は俺のよく知っているものだったからだ。
戸惑いに揺れる瞳、感情を強く押し込めようとするその姿はあの時に見せた顔と酷似していた。
自分の残りの生を悟ったからこそ、貴方との愛を残したいんだと強く懇願してきたあの目だ。
悲しみの強い思いの丈に申し訳ないという気持ちが混じり、それでもそこには揺るぎない決意が滲んでいた。
そうだ、勇利は自分がそうだと思った事は。
こうしたいと思った事には意思を曲げない、強い志を持つ子だった。
そして、他人の事をまるで自分の事のように受け止め、思いやれる優しい心もあった。
今その両方の眼差しを俺に向けていた。

『ごめ…な、さぁ…ぃ……ヴィク…ぉ、ル……ご、めん…ぁあ…さっ……』
『何故、君があっ…謝るんだぃ?お前は…何、も…』
『だっ…ぇ……貴方…を、苦っしめ、た………いっぱい、泣か、せっぇ…しまっ…た……』
『…っ!!?』
『もっ、と…ぼっがぁ…いき、ぁ…れたら…、あんぁに…あな、たを…苦っしま、ぇ…なかっあの…に……』
『ゆう…り…。』

俺が人目も憚らずに泣き腫らしたのは勇利が亡くなった後の事だ。
彼の目の前では決して泣いたりはしなかった、最期を見送る瞬間まではね。
笑顔で暖かく包んでやる事が、彼に余生を穏やかに過ごさせる為の最善だと思っていたから今際の際まで耐えていたんだ。
もしかして勇利は見ていたのだろうか。
日本でもロシアでも四十九日の概念はある程度共通している。
次の生に生まれ変わる道筋が決まるまでのその間は、死者の魂はこの世を彷徨っているという。
だとしたら俺は彼に酷く心配をさせてしまったんだろう。
俺が何とか生きる為の気力を取り戻せたのは、入矢が勇利のスケートを大事にしたいと。
世界に母の滑りをもう一度魅せ付け、蘇らせたいという夢を語ってくれたからだ。
最愛の息子の為に俺には何が出来るだろうか。
少なくともこの国ではいけない、入矢までまた俺のように人生を縛られてしまう。
彼が自由に羽ばたけるようにするには、今の環境ではいけない。
だが俺一人ではどうしても小さな子供をロシアに隠し続けて生活するには無理があったし、母を亡くした悲しみを埋められるものは男の俺では全て補うには難しいという事も分かっていた。
そして勇利を故郷に帰してあげたいという思いもあり、入矢と共に長谷津の勝生家の元に連れていこうと決心したあの日まで、俺は行き場のない哀しみに暮れ続けていた。
何とか手続きを終えて漸く祖国を旅立てた時、雪の舞っていた静かな季節は蒸しかえるような大気に包まれ、強い日差しの降り注ぐものに変わっていた。
その頃には勇利はもう転生の道へと進んでいた筈だ、その後の結末を見ていない。
という事は、彼の最期の記憶の俺は行き場のない感情に苛まれて泣いていた事になる。

『ごめ…なさ……ぃ、残さ、ぇる…あなたの…こころ、ぉ……ちっ、とも…考ぇらぇ…て、なかっ……』
『良いんだ…あの時、一番、辛かったの、は……お前の方…なん、だ、から……』

思うように生きることが出来なかった勇利の方が、間違いなくあの時辛かったに違いない。
例えそれが自分の運命だと受け入れていたとしても、だ。
それは諦めていただけで、本当の願いではなかった筈だ。
少なくとも勇利はもっと滑りたいと思っていたに違いない。
息子の入矢が大きくなっていく様を見届けたかったに違いない。
俺とだって…長く居られなかったんだ、もっと一緒に居たいと思ってくれていたに違いない。
これは憶測ではない筈だ、間違いなく彼が口にする事を止めてしまった欲なのだから。
本当に自分が望む事を、最後に彼は全部飲み込んでしまっていたんだ。
望んではいけないと思っていたんだろう。
その言葉が遺される俺を更に苦しめると考えていたに違いない。
勇利はとても優しい子だったから。

『何も…謝る、必要なんてないよ。勇利は、何一つ…悪くない。
 それに、お前は…こうし、て…戻って…きて、くれ、た…じゃないか。
 ……大変、だっただろう?』
『……ううん、ヴィクトルに比べれ、ば……何でも、ない…よ。
 貴方という…目指す、場所があったから…此処まで、頑張れたんだ。』
『………お前は、どうしたい?これから……何を、したい?』
『…滑り、たい……もっと、氷の上、で…呼吸が……したい、したかった、んだ……』
『あぁ…滑ろう。俺に、もう一度…見せてくれ。お前の、身体が…奏でる、音楽を……』

前世でお前が叶えられなかった事を、望むことすら手放してしまった事を。
今度こそやり遂げよう。

『…っ、取りたい。金メダル、一度も取れなかったから…あの時、も…表彰、台…遠かっ、た……から…』
『取れるさ。今なら…高く…飛べる、だろ?』

折角戻ってきたのだから、掴めるものは全部手を伸ばせばいい。
お前にはそれを求める権利があるさ。
自分の命を削りながら、何もかもを耐え忍んできたんだから。

『……っ、ヴィクトルと…生きたい。もっと……一緒に、居たかったんだ…!!』

誰だって死にたいだなんて思う訳がない。
やりたい事があれば尚の事、夢を叶える為に人は生きるものだと謳歌した詩人だっている。
そうだ、今度こそ叶えよう。
人生を全う出来る事が奇跡というならば、今度こそ成し遂げてみせよう。
漸くお前は心の内に閉じ込めていた、しまい込んでいた本音を吐き出せたんだね。

『…やっと、言えたじゃないか。勇利……』

その言葉を待っていたよ。あの時聞けなかった、お前の本当の願いが。

指の腹で目尻に溜まった涙を拭い、小さな顔を両手で包み込んだ。
其処に俺の半身たる魂が宿っている、それだけで全てが満たされていく。
彼女が微笑んだその表情は、俺のよく知っている優しい笑顔だった。



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遂に勇利君の記憶が戻ってきたところです、且つ運命の再開シーン。
入矢が解説した通り、此処から二人が再び番になる…事を思わせるシーンです^q^
pixiv連載時はR18部分を別投稿で切り離してたんですが…こっちでは繋げます←
自己責任で閲覧くださいませ(但し筆者はエロシーン苦手です(真顔))