神が宿世の邂逅を導く

約3時間のフライトを終えて足早に鉄道に乗り換える。
この地には2年ほど前に一度だけ来たことがあるけれど、一人で此処まで来るのは初めてだった。
以前は目的地も此処からは違った場所に向かったし、道中は案内人も居たからそのまま付いていくだけで済んだから些か緊張が走る。
どうしてスイスなのか、それも主だった観光スポットでもない地元民ばかりが利用するような場所を指定されたのか。
疑問は残ったものの、彼のオフシーズンの過ごし方は素性が世間に明るみに出てからも殆ど情報が出なかった今までの経緯を思うと、居場所を悟られない為の策なのかなと思えばある種の納得はある。
約束の時間に余裕を持って降り立ったものの、言葉が通じない国では少しばかり怖気づいてしまう。
ヨーロッパであれば英語が通じる、なんて事はない。此処スイスという国もそんな場所だった。
公用語で一番使われているのはドイツ語、次いでフランス語、イタリア語とロマンシュ語と合わせてこの国には4つの公用語がある。
残念ながらこの国で使われている言語は何一つ話せない。
空港であれば英語が出来れば何とか話は通じるだろうが、そっから先は未知数だ。

現地で路頭に迷う訳にはいかないので事前に調べはしてある。
目的の駅まで辿り着ければ、後は彼が迎えに来てくれる手筈になっているから何とかそこまでは一人で辿り着かなければいけない。
幸いにも空港で案内をしてくれた案内所のお姉さんが、丁寧に乗換の仕方や何番目の車両に乗れば改札が近いかなどまで教えてくれたので迷わずに向かう事が出来るだろう。
分かりやすい説明に本当に感謝したが、会話の最後の方で中学生と勘違いされていた事に気付いて少しだけ落胆したのだけれど。
カラカラとキャリーカートを引きながら空港から直結している電車のホームへと歩を進める。
進行方向に見えてくる案内表示を頼りに目的のローカル線に乗り込んだ。
目指すはシュターデルホーフェン駅。
周りの風景が段々長閑になっていくのを見ながら、逸る気持ちとその先にある戸惑いを胸の内に抱えていた。
景色をぼんやりと眺めながら、私はあの夜の電話を思い出していた。



Ep.1



夜も耽ふけってきて辺りには静けさが立ち込めていた。
発情(ヒート)が起こるような時期ではないけれど、私は今期参加選手唯一のΩだったのでバンケット会場になっているオフィシャルホテルではなく少し離れた所に泊まっていた。
万が一何かが起こってはいけないようにという配慮らしいけれど、一人だけ違うところに隔離されたような気持ちにもなる。
ジュニアデビューして最初の頃は戸惑いもあったけれど、オフィシャルホテルに泊まるスケート選手にはαも多いのでこれは必要な事だと思って飲み込んできた。
公式練習場からも少し遠くなってしまうので不利な点は多いけれど、逆に言えば誰かに指図されない自由な時間も多いと思えば少し気楽になったものだ。
思いの外早く戻ってこれたのでシャワーを浴びて一息ついていた。
時計は21時半をゆうに過ぎた頃、約束の時間までもう少しという事か。
だがシャワーを浴びている間に自国の連盟職員からの着信とメールが届いていた。
慌てて内容を確認すると、どうやら彼らは入矢と接触したらしい。
彼らは随分自分を売り込もうと躍起になっていたから、捕まってしまったのであれば解放されるのはバンケットの終わり際になってしまうかもしれない。
文面には彼が私と個人的にまた話したいという旨が書かれていた事から、彼らに先走られてしまうとお見合いみたいなセッティングをされてしまうかもしれないなと思っておかしな気分になった。
普通に出会っていれば入矢はとても素敵な男性だと思う。
精悍な顔立ちで物腰は柔らかく、絶対的な自信を携えた佇まいはとても強いαの様相だ。
Ωであれば誰しも彼に惹かれ、近付きたいと思うだろう。
そんな媚びの眼差しを一切寄せ付けないほどの雰囲気オーラを纏っているけれど、私には“記憶の中に出てくる一人の男の子”という認識のままだった。

この記憶の持ち主が誰であるのか、それを知ることが出来たのは彼が己の素性を明かしたあの5年前のグランプリファイナルがあったからだ。
記憶に音声や物事を正確に指し示す要素――建物や場所を表す情報になるものや人物など――がハッキリと見えず、自力でこの記憶が真実なのか妄想なのかを判断出来なかった。
唯一顔を認知できた幼い少年が彼だという直感だけが、この記憶の主の鍵になっていた。
その後彼の生い立ちが世間に公表され、その当時を知るだろう人物で一人だけ、この世を去っていた者がいた。
それが彼の母である勝生勇利だった。
命日は公表されていなかったが、その当時入矢が5歳だったという情報からすると、ギリギリではあるが自身が彼の転生者である可能性は否定出来ない。
だが決定打になるものが他に無かった為、真実を確かめるにはやはり入矢本人に確認してみるしか術がなかった。
もっとハッキリと記憶が見えれば良いのに。
でもこれ以上記憶を引き出すには更に別の鍵が必要なのだろうなという直感はあった。

初めて入矢を見つけた、彼の初めての世界ジュニア選手権。
姿を見た瞬間に記憶の中の幼い少年と彼が重なり、それまでにチラホラと見えていたその先の記憶が蘇った。
入矢に話した何処かの寝室の風景は、その時に新しく見えた記憶だった。
それまでは少年の背景は凄く曖昧で、ピントの合わないレンズ越しに彼を眺めていたような感じだった。
恐らくその先を見る為には更に別の鍵が必要なのだろう。
前世の記憶というものは通常見る事の叶わない、云わば今世からすればパンドラの箱のようなもの。
どんなに良い記憶だったとしても、前世の記憶は必ず今世に対して何らかの負の要素になり得る。
自己確立において別の記憶や意思というものは凄く邪魔なのだ、混乱を招き精神の安定を阻む事になる。
私も記憶が一気に押し寄せてきた時に、自分が何者なのかが分からなくなって叫びだしそうになった事があった。
氷上に帰りたいという気持ちも、氷の上で息をしたいという思いも、全部私のものではない。
これは前世の私が強く思っていた思念であり、自分の意思ではないのだと悲しみにくれた事もあった。
だけど白い水面から離れると更に苦しくて、滑っている間が一番己の精神を鎮める事が出来ると気付いた時にはこれが自分の運命であり、望むべき場所なのだと悟った。
逃げる事は出来ない。
この悲しみと苦しみから逃れる為には、自身のものではない過去と向き合わなければ前に進めない。
それ程に“勇利の記憶”というものはとても強い思念だった。

その理由の一端は入矢が世間に公表した詳細な彼の過去から読み取れた。
勝生勇利の最期とその後遺された彼らの生活の話を聞き、心が泣いている事に気付いたからだ。
ヴィクトルが毎晩のように息子に縋るように抱きつきながら涙したという話を聞いた瞬間に、魂が叫んだのだ。
彼をこれ以上、独りにしてはいけないと。
半身を削がれた痛みをまるで共有するかのように、後悔の念が私の心の中に溢れた。
涙がほろほろと頬を滑り落ちて、込み上げてくる感情を抑えるには両手で顔を覆うしかなくて。
ただ分かっているのはどうしようもなく、あの温もりをこの手で抱きしめたいという事。
きっとこれが、勇利がこの世に戻ってこようとした理由なんだろう。
ならば私もそこに行かなければならない。
彼の悲しみを癒さなければ、私自身も記憶と感情の狭間に取り残されてしまって自分の足で立つことが出来なくなってしまうと感じたからだ。
そこに私の意思があるのかどうかは正直分からない。
既に勇利とユリアナの境目がぐちゃぐちゃになってしまっているから、何処までが自分なのか答えを出せる筈がなかった。
双方の心に決着をつける為にも、彼に会わなければ…そしてヴィクトルに再会しなければいけないとこの時決意した。
その為には息子である入矢しか現状手繰り寄せる綱はない。
ヴィクトルは表舞台にはもう殆ど出てくることがない為、彼に直接会う術が一介の少女にある筈がなかった。
スケートを極めてその頂点に立つことが出来れば…目指す入り口はそこしかない。
それが私が世界女王を志した理由だった。

そう、初めから私の目的は入矢の向こうにいるヴィクトルだった。
確信を持てないにしろ、私の中では入矢は前世の自分の息子としてしか映っていなかったから最初から恋愛対象にはなっていなかった。
否、初めからヴィクトルを目指していたのだから通過点と言うべきか。
自分の感情が最終的に何処に向くのかなんて分からないけれど、これだけ魂が渇望しているのだ。
ヴィクトルがαで自分がΩである以上、もしかしてこれが運命を求める心なのかもしれないという気がしていた。
けれどそれはヴィクトルと勇利が運命だったから、同じ魂を持つ自分が彼を求める気持ちがあるのは当然の事ではないかとも考えてしまう。
ユウリが彼の運命だったからといって、私と彼が運命かどうかなんて分からないのだから。
だから会うのが怖いという気持ちも少なからずあって、間もなく入矢から連絡が来るだろうという頃合いに僅かに緊張が身体を巡っていく息苦しさを感じ始めていた。
そもそも彼に会いたいと思っているこの気持ちに“ユリアナの意思”がどのくらい混じっているのか、自分で答えが出せないというのに何と告げれば良いだろうか。
誰かに相談をしたくとも前世の記憶と混乱して迷いがあるなど、どうやって分かって貰えば良いのか。
そんな経験をした事がある者がいれば、世間でもっと話題になっているだろう。
結局私の精神がおかしくなっていると片付けられるのがオチだ。
ずっと自分の中にしまってきた事を、意を酌んでくれるだろう入矢相手でも上手く説明できるかどうか分からない。
刻々と迫る時間に息が少しずつ詰まっていく感覚が次第に強くなっていくのを感じた。
試合前ですらこんなに緊張した事なんてないのに。

突如軽やかな電子音と共に振動音が部屋に響く。
画面に表示されている番号は登録されていないものだった。
いつの間にか時計の長針は4の数字を指し示そうかという時刻、きっと彼からだ。
反射的に小型通信端末(PCT)に手を伸ばし、電話マークをスライドさせる。

『"…ユリアナかい?僕だよ、入矢だ。遅くなってごめんね。"』
『ううん、大丈夫よ。ゆっくりシャワーも浴びれたし。ねぇ、さっきは大丈夫だった?
 連盟の人から連絡があったわ、貴方捕まっていたんでしょ?』
『"あぁ、うん。まぁそれは何とか…ごめんね、随分彼らをその気にさせてしまったようだ。"』
『私こそごめんなさい。貴方を巻き込んでしまって…』
『"気にしないで。僕らがそう見えている内は隠れ蓑としては丁度良いからね。"』
『隠れ蓑?』
『"あぁ、日本のことわざみたいなものだよ。真実を隠す為の表面的な殻のようなものさ。"』
『日本人って面白い例えをするのね。』
『"英語に直すと上手く一致する言葉がないんだよ。"
 "語彙力が豊富と言えばそこまでだけど、…説明するのが難しいな。"』
『……あの、ヴィクトルは…』
『"居るよ。さっきまで君の事とこれから起こるだろう事を説明していた所だ。"
 "君にも聞いて貰わなきゃいけない。とても大事なことだから。"』

そして入矢は私とヴィクトルが運命だという確信がある事を説明してくれた。
まさかヴィクトルがユウリを失った後Ωのフェロモンを感じなくなっていただなんて…
けれど入矢の身体に僅かに残った私の匂いを感じとってくれた、その事を告げられた瞬間自分の心が歓喜した事を感じた。
嘗ての半身である勇利のものではない、他ならぬ私の香りに反応してくれたという事実に心が震えた。

『私が…彼の運命なの?本当に…?』
『"少なくとも僕は間違いないと思ってる。今まで運命とは何なのか、誰もその答えを出せなかったけれど…"
 "きっとこれでハッキリすると思う。確かめるには直接会うしかないんだけど…"』
『……っ、ヴィクトルは、何て言ってるの?』
『"…君の将来の事を気にしてるみたい。"
 "自分の残りの人生と天秤に掛けたら、どうしても重いのは事実だからね。"』
『……っ!』

その言葉に心が軋んだ。
私を思ってくれての行動に対する嬉しさと、彼の本心が見えない苦しさが綯い交ぜになる。
αと違ってΩは番ったαに縛られる、それは既に勇利を失った事で彼は痛いほど体感した事だろう。
だけど理性で全て抑えられるほどしか彼には熱がないのだろうか。
私はこんなにも、身が引き裂かれそうな衝動を抱えているのに…!

『……私だけ、なのかしら。』
『"ユリアナ…?"』
『私だっておかしいって思ってるのよ?会った事もない人に恋い焦がれるなんて…
 ヴィクトルをどんなに探しても、出てくるのは昔の写真や映像ばかりで。
 その姿をカッコいいとは思っても、でもどうして彼なのかさっぱり分からなかったもの。
 溢れてくる想いは私の中にいるユウリの感情で、決して私のものではない。
 ずっとそう、思ってたのに…そこにいる筈の、貴方の声が聞こえない事にどうしてこんなに動揺しているのか
 自分でも分からない。手を伸ばせば届きそうな所まで、漸く辿り着けたのに……
 ……勿論、私の将来を思ってくれている事は分かってる。解ってるけど……』

私の存在って、そんな程度で済ませられるって事なのかしら。
自嘲的な笑いがフッと沸き起こる。
この感情を一体何処に向ければ良いのか分からず、ただ反射的に涙が頬を伝うばかり。
端末を介した声だけのやり取りだからその姿を見られる事がないのが唯一の救いか。
彼の顔を見てしまったらきっと嗚咽が込み上げてしまいどうしようもなかっただろう。
悟られないようにグッと堪えたその時だった。

『"…っ!そんな訳ないだろう?!運命がどんな存在なのか、俺は痛いほど知ってるさ!"』
『…ヴィクトル?その声はヴィクトルなの?』

初めて聞いた声に戸惑い、そして喜悦するが直ぐに哀傷の念が込み上げる。
あぁ…もうこれでは何処までが“彼”で何処までが“自分”なのか分かったものではない。
でも言える事はただ一つ。

『…ねぇヴィクトル。私の気持ちと貴方の気持ちは同じ?私は、手を伸ばしても良いの?』
『"…俺の手を取ってくれるのかい?こんな小父さんの手を…"』
『恋愛に年齢を引き合いに出すのはナンセンスだわ。それに、ユウリは貴方に逢いたくて戻ってきたのよ?』

貴方はその健気な想いすら捨て去るというの?そう言い放つと彼は返す言葉もなくなってしまったようだ。
声は聞こえないけれど、気配で彼が苦笑しているのが分かる。
ごめんなさい、きっとこれは“脅し”ね。
貴方にユウリを捨てる事が出来ない事を分かってて告げたのだから。
それでもよかった、何でもいいのだキッカケなんて。
私は心の底から。この魂が貴方を求めて叫んでいるのだから。

『会いたい、ヴィクトル。本当に私が貴方の新しい運命なのか、確かめたいの。』
『"…後悔しないかい?出会ってしまったら、もう引き返せないかもしれないよ?"』
『構わないわ。もうずっと、その日だけを信じて滑ってきたんだもの。
 例え私が貴方の運命でなかったとしても、貴方に会えないままじゃ私の中のユウリが泣いてしまうわ。
 それに、私も確かめたいの。』

この気持ちが何処にあるのか。何処までがユリアナの気持ちで、何処からがユウリの想いなのか。
きっと貴方に会えれば、答えが判ると思うから。
その言葉で彼も折れたようだった、きっと私よりも何倍も決心するのに心を砕いた事だろう。
それでも、選んでくれたことは本当に嬉しかった。


気が付けば電車の速度は落ちていて、意識が向いた時に扉が開いた。目的地であるシュターデルホーフェン駅だ。
数人降りていく人たちの後ろについて、私は降り立った。

閑散とはしているが疎らに人がいて、活気付いてはいないがそこには人々の日常があった。
何時もの遠征で使うものより二回りほど小さいキャリーカートだが、見渡しても私以外に旅人らしき姿がなく一人だけ違う世界から紛れ込んだような感覚だ。
建物は殆ど2階建てか3階建てで空が広く見える。
緑も多く、徐々にこの地にも春が訪れているのだなと感じた。

時は4月も半ばに差し掛かろうという頃、シニアの世界選手権から1週間ほど経っていた。
日程と場所はあの夜の電話の2日ほど後、日本との時差は6時間ほどだがメールで送られてきた。
4月13日の15時にスイスのシュターデルホーフェン駅に、ただそれだけだった。
都合が悪ければ数日は調整すると書いてあったが、丁度春休みに当たる時期なので問題はないと返した。
彼はそこまで考えて日程を組んでくれたのかは定かではないけれど。
それにしても約束の時間までまだ30分以上ある、早く着き過ぎてしまったか。
けれど飛行機を利用していく場合、どうしても何か起こったときを想定しておかなければいけない。
案の定乗る予定だった飛行機も予定より30分ほど遅れて離陸した為、これ以上何かが起こっていれば逆に遅刻していた。
到着したら電話するようにと言われていた事を思い出し、彼の電話番号を呼び出した。
数コール間を置いて呼び出し音が止まる。

『イリヤ?私よ、ユリアナ。ちょっと早いけどシュターデルホーフェン駅に着いたわ。』
『"もう着いたんだ。ちょっと待って……あぁ、居たね。直ぐそっちに行くよ。"』

もしかして私の姿が見える場所に居る?そう思って辺りを見回したけれど、彼の姿は何処にもなかった。
その間喋らなかったけれど通話は繋がったままだ。

『…近くに居るの?イリヤ…全然姿が見えないけど。』
『"駅のすぐ隣のカフェだよ、あぁ動かないで。迎えに行くからそこで待ってて。"』

やっぱり見えているようだ。駅を出てすぐ左手にオレンジ色の文字でカフェの名前が出ている。
オープンスペースがないから恐らく店の中に彼は居るのだろう。
だが扉を開けて出てきたのは褪せた金髪の男で入矢ではない。

『…分かったわ。でも、ゆっくりお茶してたのなら急がなくていいのよ?何だか悪いわ…』
『気にしなくていいよ。もう飲み終わって本を読んでいた所だから。』

カフェから視線を外したのはほんの一瞬だった筈なのに、さっきまで電話の向こうから聞こえていた声がすぐ傍で聞こえて虚を突かれた。
驚いて視線を其方に向けると、先ほどカフェから出てきた金髪の男が立っていた。
サングラスをしているせいで更に顔がよく見えないが、今し方聞こえた声は間違いなく入矢の声だった。

『……えっ?』
『ごめんね、これじゃ分からないよね。これで良いかな?』

サングラスを取ったその目はシアンブルーの輝き。
カーキのモッズコートに身を包み、合わせ目から見えるロングTシャツにはモノクロのプリントがされていて洒落ている。
紺色のジーンズに茶色の革靴はカジュアルなコーディネートにも合うようにフォーマルさが少し抜けたデザイン性のもの。
彼のイメージとは違うその姿に、直ぐに頭の中で結び付けられなかった。
まるで別人のように変装した彼がそこに居たのだ。


「Can you speak English?」
「Ah......No.I can.」
「…Vous pouvez comprendre la langue de France ?」
「Bon d'accord」
「Veuillez consulter le Dolder Grand.」
「Bien sur.」

駅の近くで何とかタクシーを捕まえたのはその後だった。
彼に促される形で一緒に後部座席に乗り込み、中年の男が運転しているタクシーはそのまま発進した。

『えっと…今のはフランス語?』
『そうだよ、よく分かったね。』
『話せるの?』
『まさか。ヴィーチャがフランス語も得意だから、必要そうなフレーズだけ教えて貰っただけだよ。』

聞き取れるほどの語学力は全くないよ。
そういって走り出した車の中で優雅に足を組み替える。
サングラスは紫外線を浴びると濃く変色する仕組みのようで、徐々にそのレンズの色が薄くなって彼のシアンブルーの瞳がレンズの向こうに俄かに存在感を示し始めた。

『それにしても驚いたわ。いつもそうやって変装して外に出てるの?』
『まぁね。居場所がバレると“あの国”から雇われた刺客が何してくるか分からないからね。
 過去にも何度か周りを巻き込んじゃった事もあるし、これ以上被害を出さないように色々とね。』

見事な変装っぷりだと思う。
普段の彼のイメージとは真逆の服装に、髪色を変えただけで彼は完全に別の外国人の様相だった。
元々瞳と肌の色は父親から譲り受けたものだが、色素が薄いとはいえ黒髪は欧州では少ないから目立ってしまう。
ウィッグで髪を隠し、雰囲気を変える衣装で見事に別人に様変わりだ。

『…名前、そのままで呼んで良いの?』
『あーそうだね、聞かれる恐れは少ないとは思うけど…じゃあイーリャって呼んでよ。』
『分かった、イーリャ。』

確かイリヤの略称――ロシアでの呼び名みたいなもの――だった筈。
下手に名前を変えると反応出来なかったりもするし、こういう時外国人名である事は便利だ。

『イーリャ、何処に向かってるの?さっき上手く聞き取れなかったわ。』
『もう少し郊外に走ったところに丘陵があってね。その上にホテルがあるんだ。
 会うなら誰かに邪魔されない場所が良かったから、そこのスイートルームを押さえてる。
 昨日の内にヴィーチャも其処に着いてるよ。』

その言葉にドキリとする。
彼がもう、この街に来ているという事実に身体に力が入った。

『…あぁ、聞きたい事があったら聞いて良いよ?さっき運転手に英語が分かるかどうか聞いたら分からないって
 言ってたし。地元の人間みたいだから、公用語以外は恐らく通じないと思う。』
『もしかしてさっきはそれを確認してたの?』
『念には念を…ってね。フランス語が分かって助かったけどね、この辺の地域はドイツ語が主流みたいだから。』

そんな所まで考えて聞いてたとは…この日頃からの用心深い注意力で刺客から逃れていたのだろうか。

『…どうしてスイスだったの?』
『僕とヴィーチャの利害の一致かな?元々“ある人”と会う為に僕に用事があったんだ。
 実はこの国にはヴィーチャの現役時代からの古い友人が居てね。
 オフシーズンに入って彼もこっちに戻ってくるみたいだったから、会うように勧めたんだ。
 バンケットで彼がヴィーチャに会いたがってたことを思い出してね。
 序でに序でを重ねたんだよ。』

その方が僕らの行動が別々になるから、外部から動向を探られにくくもなるしね。
そう告げられて、たまたまこの地で落ち合いやすかったからだったのかという事を知る。

『調べたらフィンランドからも直行便があるし、大丈夫だと思ったんだけど…来るの大変だったかな?』
『ううん、何でわざわざお互い言葉の通じない国を選んだのかなって疑問に思っただけだから。
 もしかして、会話を聞かれても内容が筒抜けにならないように?』
『あーまぁそれは結果論かな。でもまぁ、そういう事にしておこうか。
 …他には?何か聞いておきたい事ある?』
『どうして…私の話を信じてくれたの?』

今更言うのもなんだが、あの状況で突然記憶の話をされて直ぐに信用出来るものじゃない。
私はただ見えた事を話しただけで、それがどれだけの信憑性のあるものなのかは分からない。
だが普通に考えれば、生まれ変わりだなんて冗談の一言で済ませてしまうくらいに非現実な話だ。
しかし彼は確信を持ってくれたか否かは分からなかったが、己の母の生まれ変わりであるかもしれないという言葉はあの場で受け入れてくれていた。

『君が話した場所に母さんが最期を過ごした寝室の風景があった。
 普通なら知ってる筈が無いんだ、ヴィーチャは母さんをロシアに連れてきてからは日常を発信する事を止めて
 しまったから。』
『止めてしまった…?』
『応援してくれてるファンの為に日常を公表するのはよくある事で、ヴィーチャもファンサービスは大事に
 していた。以前は定期的に家の様子も上げていたらしいんだけど、母さんを連れ帰ってからは一切止めて
 いたらしい。』
『…どうして?』
『一つはロシアのスケ連からの条件で、母さんがヴィーチャの番である事を悟られないようにって言われていた
 事。だからインスタの写真に日常を晒す事をしなくなった。
 その年の世界大会でヴィーチャは引退したからね、日常は母さん中心になっていった。
 だのに公表は疎か悟られるなって言われたら、何も上げられなくなるだろ?
 まぁ、ヴィーチャも母さんの姿を曝したくないと思ってたみたいだけど。』

日に日に弱っていくのが分かるその姿を、目に留めるのは自分だけで良い。
勇利も世界に残す自分の姿は、スケーターとして全うした選手の姿が良いと言った。
パーソナルスペースの広い彼は己の弱い所を見せられる人間は限りある者だけだった。
彼なりの自尊心プライドを守ってやる為にも、私的な投稿を自然と控えるようになったのだという。

『だから母さんが過ごした寝室の風景は誰も知らない。
 母さんが床に臥せる事が多くなってから、ヴィーチャが色々取り揃えて様変わりしたからね。
 青い寝具は母さんの好きな色だからと敷き直したもの。
 サイドチェストとベッドランプはベッドで本を読んで過ごすようになった母さんの為に増やしたものだ。
 君はその色や配置も正確に言い当てた。
 ヴィーチャのリンクメイトで家に出入りしていた人も居たけど、母さんの寝室だけは僕ら家族しか立ち入ら
 なかった場所なんだ。』

だから他の誰も知らない事だ。
それを知っているという事は、君の中に母さんが本当に居るかもしれない。
そう考える要素としては十分な力を持っていた。

『あと、ガーベラの花言葉、かな?これは僕が個人的に気になって調べていたから分かった事だけど。』
『花言葉…?』
『君が言ってくれた、白は[律儀]、オレンジは[我慢強さ]っていう花言葉は実は日本のものなんだ。
 母さんがヴィーチャに教えたんだよ。だからヴィーチャは英語での花言葉を知らないんじゃないかな。』
『そう…なの?そう言えばそういうものだと思ってたから調べた事なかったわ。』
『英語でのガーベラの花言葉、白は[純潔]、オレンジは[貴方は私の輝く太陽]なんだって。
 似ているようで本質は全然違う意味の花言葉なんだ。』

英語の方はヴィーチャから母さんを見た時の姿みたいだよね。
何方にしてもこの花は勝生勇利を指す花としては相応しい言葉だと僕は思っていたけれど。

『それが、僕が君の言葉を信じた理由だよ。確信を持ったのはヴィーチャの反応を見てから、だけどね。』
『そう、だったの。その記憶はね、貴方をテレビで見かけた時に初めて見えた事なの。』
『そっか…僕を見つけてくれたから思い出せたんだね。』

それも嬉しい事だ、僕が世界の頂点を目指した事で鍵が一つ開いたのなら。
勿論彼女が僕を目指して此処まで昇ってきてくれたから実現した事ではあるけれど。

『そうだ、私と彼が運命かもしれないって話は聞いたけれど、何故あの時じゃなくて今日を選んだの?
 説明してる暇はないって言ってたけど、あの時の電話でも結局何故なのかは聞かなかったわ。』
『あぁ、そういえば説明しそびれたね。
 あの時は君の記憶の話だけだと半信半疑のままだったからってのもあるんだけど…
 運命の番ってね。出会ったらどうしようもない衝動が起こるんだよ。
 Ωは運命のαを逃さないように疑似発情(ヒート)を起こすし、αもまた項を噛みたい衝動を抑えられない。
 抑制剤を互いに服用していれば多少理性が利く程度で、よっぽどの事がない限りは避けられないと思う。
 あの場はまだ多くの関係者が居たから、万が一そんな事態になってしまったら大変だと思ったからだよ。』
『……そんな事が、本当に起こるの?でも、何故イーリャはそんな事知って…』
『周りには内緒だよ?僕ね、既に番が居るんだ。それも、運命の番がね。』
『…っ!!?』
『僕が奴らに狙われてる間は人質に取られたりするかもしれないからね。
 時が来るまでは公表しないように日本政府やスケート連盟にも口止めの協力をして貰ってるんだ。
 だから国際スケート連盟ISUも知らない事だよ。』
『そう…そうよね、ヤン氏がその事知ってたら私が会いに行っても門前払いだった筈だし。』

スケート連盟の登録情報だと勝生入矢はフリーのαとされていた筈だ、彼の事は事前に調べていた。
というものの彼には過去に己の情報を全てひた隠しにしていた経歴があるから、今更まだ秘密があったのかと驚くしかない。
考えてみればジュニア時代に、海外だけでなく国内にも彼の情報は殆ど流れていなかった。
普通ならばあり得ない、メディアに対してだけならまだしも国内のスケート連盟も知らないだなんて。
明らかに何かしらの情報規制が掛かっていたと見るべきだ。
つまり彼はその頃から連盟の上層部との繋がりがあるに違いない。
その力があれば自身の過去や今の情報だって操作が可能だろう。
だがスケート連盟だけでなく政府にまで圧を掛けていたとは驚いた。

『僕が実際そうだった事と、現在分かってる2組の運命の番達も同じ経験をしている事を確認してる。
 君がヴィーチャの運命なら、きっと同じことが起こるよ。』
『……本当に、私が運命だって信じてるの?』
『今はね。他の誰のΩの匂いも分からなかったヴィーチャが、君の香りを嗅ぎつけた。
 君は普通のΩじゃない、ヴィーチャの唯一だった母さんの記憶を持っている。
 …僕はね、運命を決めるのは魂同士の結び付きなんじゃないかって、今は思ってるんだ。』

誰も知らなかった、運命とは何なのか…君がそれを証明してくれるって信じてるよ。
微笑んだその表情に何故か心が軋んだ。そうだ、私はまだ何も思い出してなかったんだ。
目の前に現れた私が自分の母の生まれ変わりかもしれないだなんて…彼は一体どういう気持ちで聞いていたんだろう。
自分の事でいっぱいいっぱいだったから、目の前の少年の心情なんて考えてなかった。
私の中の、ユウリの持ってるイリヤの記憶と、彼の持っている母のユウリの記憶。
一体どっちが多く残っているのだろうか。
いや、例え僅かだったとしてもきっと彼の方が強く持っているに違いない。
私にとってユウリは前世の事で自分の事ではない。
だけど彼にとってユウリは母だ。
この世でたった一人の、血の繋がった母親だ、重みが違う。
記憶が蘇った時に私がどうなるのかまだ分からないけれど、彼にとっては何方にしても目の前にいる少女を母の生まれ変わりだと思うしかない。
憶測か確証か、違いがあるとすればそれくらいだ。
事実だけを見極めようと、真実を突き止めようとしているように見えるが内心複雑な気持ちを抱えてるに違いないのに…

『……イーリャは、それで良いの?貴方にもユウリの記憶があるでしょ?』
『……正直言うと複雑な気分だよ?ヴィーチャにも少し本音零しちゃったっけなぁ。
 でもね、僕だからこそ、受け入れられるんだと思うよ。』
『…っ??どういう…』
『僕自身が、運命がどういうものかを知ってるからだよ。
 彼と出会った時、言葉では表せられない衝撃、歓喜、恵愛の想いから哀愁、喪失、悔恨の情まで…
 次々と溢れてきて綯い交ぜになった。何故そんな感情までも流れてくるのか、ずっと謎だったけど…
 思い出せない記憶の向こうの感情、運命が前世からの繋がりだと分かれば納得もいく。
 僕ら多分前世であんまり良くない別れ方したんだろうなぁ…
 覚えてなくても、魂から湧き上がる想いだけはきっと嘘を付かないんだと思う。
 …だから、もう一度会えるっていう事がどれほどの奇跡なのか、僕はこの身で体感してる。
 そして父さんと母さんの悲しい別れを知ってる僕だからこそ、君の背中を押せるんだ。』

今度こそはちゃんと、貴方たちの魂が本当の最期まで添い遂げられるように祈ってる。
そう告げた彼の声は少し震えていた気がする。
気が付けば額同士が触れていて、彼が切なそうに私を見下ろしていた。
これが最善の方法なのか彼にも分からないのかもしれない。
だけど引き合わせられる運命ならばと、この手を取ってくれたのだ。
優しい、優しすぎる彼の想いに涙が溢れた。
あぁ…早く一つでも多く思い出したいのに…!!
彼だって唯一の母を失った痛みを抱えて生きてきた筈なのに、まだ何も返せない自分がもどかしすぎて。

『……っ!!…あり……が、と……イーリャ……。』

私は嗚咽を堪えながら、そう言葉にする事しか出来なかった。



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ユリアナは思ってる以上に勇利の記憶がないよっていうのを改めて書いたお話にもなります。
前世の記憶はそう簡単に持ちえるものじゃない、というのもこのお話の肝です。
入矢君が既にこの時点で一般の人たちが知りえないことを色々知っているのも…
この辺りから伏線を張っていたりします、実はネ^q^←