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微睡むような日差しを浴びながら、段々身体が重くなっていくのを感じていた。
何時もちょっと身体を動かしたら疲れてしまってついつい眠ってしまう事が多かったけど、何となく今日は違うなと感じていた。 目を開けているのも何だか億劫だ。 だけど今閉じてしまったら、二度と開けないかもしれない。 漠然とだけれどそんな予感がしていた。 この子も何処かで感じ取ってるんだろうな、さっきから僕の傍を離れようとしない。 泣きそうになりながらも懸命に堪えて、ずっと僕の手を握りしめてる。 この子には優秀なヴィクトルの血が流れているから、きっとこれから先輝けるに違いない。 スケートをするかどうかは分からない、だけどどんな道に進んだってお前なら栄光を掴めるよ。 僕は信じてる、他ならない愛する息子の将来なんだから。 小さな手に握られていた感覚に、上から更に力強いものを感じた。 あぁ、帰ってきたんだね。お仕事ご苦労様。そう言葉にしたいのに、どうしてか声が出ない。 ちゃんと出迎えたかったのにごめんね…何だかもう、僕の身体は動いてくれないみたいんだ。 ……泣いてるの?ヴィクトル?大丈夫だよ、何処も痛くないし苦しくもないんだ。 ただちょっと、凄く眠いだけ。 傍に居られなくてごめんなさい。 幼いイリューシャを残して、残りを貴方に背負わせてしまってごめんなさい。 もう少し大丈夫だと思ってたんだ、貴方と過ごすようになって随分身体は楽になったから。 …だけどやっぱり間に合わなかったみたい。 子供を産まなければもう少し長く生きられたかもしれない、そう貴方にも言われたっけ。 でも僕はΩだ、愛する人と漸く一緒になれたのに子も成せないだなんて…それこそ辛かったんだ。 あぁでも僕は自分勝手だったね。 勝手に僕の人生を決めるなと言って求めたのに、結局自分で命を削ってしまってこの様だ。 旅立つ時は笑顔でって思ってたのに…何でかな、やっぱり涙が溢れてきてしまうみたい。 望んでもどうしようもなかったけれど、でもやっぱり色々夢見たよ。 これから一緒に歩んでいけたら、どんな人生だったんだろうなって。 自分が選んだ道だから後悔なんてしてないけれど。 だって生きる事が目的だったら、僕がもっと早く滑る事を辞めていれば良かったんだから。 僕は自分の人生を全うしたつもりだったんだ。 望んだ成績は得られなかったけれど、それでも精一杯やりきった。 …つもりだったんだ。 二人の声が段々遠のいていくのを感じながら、最後の力で二人の名前を呼んだ。 それもきちんと音になっていたのかどうか分からない。 僕は重くなってきた瞼をゆっくりと閉じていった。 僕の名前を呼ぶ声が、遠くから木霊するように最後まで聞こえていた。 そして、何もない無が僕を包み込んだ。 それが最期だった。 Ep.3 長い夢を見ていたような気がする。 とても長い夢だ、それも幸せを切り崩したとても悲しい夢。 あの瞬間までは生を全うしたつもりだったからそんな事は思ってなかったんだけど。 自分が消えた事によって家族に与えてしまった損失がとても大きかったのだという事を知って、一気に色が悲しみに染まった。 ハッキリと覚えている訳ではないが、死後の短い時間を彷徨っていた時の記憶もうっすら残っている。 寧ろそれがなければ再び帰りたいとは思っていなかっただろう。 僕があれほど離れていた時に身を引き裂かれるような痛みを覚えていたんだ、彼にだってそれがないだなんて考えていなかった訳じゃない。 それでも何日も何日も目を腫らして、一度波が治まったように見えても結局夜にはまた思い出してしまうのか涙して。 行き場のない悲しみを上手く消化する事も出来ずに暮れていた彼の姿が脳裏にこびり付いて離れなかった。 あの時に強く、帰りたいと思ったのだ。 もう一度、この手で彼を抱きしめたい。それだけが願いだった。 だけど結局自分は欲張りだったみたいだ。 納得しているつもりだったけど、他にも後悔は残っていたらしい。 今までずっと口にしたらいけないと何処かで思っていたんだ。 その言葉がヴィクトルを更に苦しめるだろうと感じていた。 彼は僕が短命の宿業を背負ってしまったのは自分のせいだと、ずっと自分を責め続けていた。 これ以上彼を自分のせいで追い込みたくなかった、だって彼のせいでもないのだ。 一言でいえば運が無かった。あの時自分たちの置かれた世界が、運命に対して優しくなかっただけだ。 彼の祖国は同性愛を嫌悪していたから反発もあった。 成人して尚彼と会う事が出来なかったのは、若輩の罪の罰だけではなかったと思っている。 僕が選手を続ける以上はどんな成績であれメディアの目に留まる。 男の僕が彼の番である事実を、あの国は徹底的に隠し通したかったという事だろう。 選手であり続ける事か彼と共に生きる事か、何方も諦めたくはないのに。 それでも僕はこの二つを天秤に掛けなければいけなかった。 僕にとってはスケートもヴィクトルも同じくらい大切で、何方かを無下に扱うなんて出来る訳もなく。 何処で見切りをつけて線引きをしたとしても、何かしら後悔を残すことになっていた。 だから本当にあの時は仕方なかったんだ。 諦めなければいけない、そういう世界だった。 ゆっくりと身を起こすと半開きのカーテンの隙間から薄明りが零れていた。 此処に着いた時は夕方だった筈なのに、空はもうすぐ夜明けを迎えようとしていた。 次第に星々の姿が消え、地平線の向こうから小一時間もしないうちに太陽が顔を出そうという頃合い。 窓の方へと視線を向けようとした際に首筋にチリリと僅かな痛みが走った。 そうか…項を噛まれたから眠っていたのかと。 番になったαだけの身体になる為に、Ωは噛まれてから半日ほど眠りにつく。 目が覚めたという事は身体の変化が終わったという事だろう。 望んでいた事だった筈だが不思議な感じだ。 Ωが番を得る感覚はたった一度きりの筈なのに、自分の中では二度味わっているのだから。 『起きたのかい?』 隣に気配がないと思ったら既に起きていたのだろう。 リビングルームの方からバスローブを纏ったヴィクトルがやってくる。 その姿を見て自分が何も纏っていない事に気が付いた。 無意識にシーツを手繰り寄せてはいたが、何も身に着けていない事実に変わりはない。 その事に妙に気恥ずかしさが込み上げてきた。 通常の発情ヒートと違って僅かながらもその間の意識があって、全部ではないけれど数時間前まで彼としていた行為も覚えている。 今更隠したところで既に全部見られているけれど、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。 気まずそうに視線を逸らしてしまった…彼が視界の端でクスクスと笑っているのが分かって更に恥ずかしくなってくる。 そういえば勇利の時にも同じような光景があった気がする。 何故彼は何時も余裕があるのだろうか。 『喉が渇いただろう?水を持ってきたよ。』 『ありがとう、ヴィクトル。』 『序でに、アフターピルもね。念には念を入れないと。』 冷蔵庫に備え付けられていたペットボトルのミネラルウォーターだろうが、彼はご丁寧にグラスに注いでくれた。 白い錠剤はわざわざ封を切って渡してくれる。 こういう紳士的な所は昔から変わらないなぁと思いながら、静かに飲み干して喉を潤していく。 傍に彼が腰を下ろしてそっと抱き留めてくれる温もりを感じた。 勇利だった頃の記憶と違ってそのままだと目線が合わない事に気付き、今世の自分の身体が彼の体躯に対して思いの外小さい事にも気付く。 (不思議な感覚…ユウリの時にもこうして背中を抱いてくれた事があるのに、その時と感じが全然違う。) 女性の身体を気遣うような、凄く大事にされている感じだ。 肉体が違うだけで自然とそういう事をさせているのだろうか。 あぁでも前よりは甘えやすい気がする、見た目って凄く大事だなと改めて思う。 傍にある温もりを求めて無意識に頬を寄せてしまった。 ヴィクトルは慣れた手つきでユリアナからグラスを受け取ると、サイドテーブルへそのままコトリと置いた。 『気分はどうだい?半日くらい眠っていたから今は夜中だよ。あと1時間もしない内に夜明けだ。』 『もうそんな時間…道理でお腹が空いてると思った。』 『…ルームサービスでサンドイッチを頼んであるけど…食べるかい? 時間が経っているから美味しいとは言えないかもしれないけれど。』 『良いよ、食べられるだけで嬉しい。ありがとうヴィクトル。』 彼が再び立ち上がって、リビングルームからサンドイッチを持ってきてくれた。 ラップを掛けられている白い皿が妙に小奇麗過ぎて少し緊張する。 一流ホテルだけあって使用している食器も恐らく凄く高いのだろうなと思い、落とさないようにしっかりと自分の膝に乗せた。 『……うん、美味しい。出来立てはもっと美味しかったんだろうな。』 『7時になればモーニングセットを頼めるからね、それまでそれで我慢しておくれ。』 『大丈夫だよ。これだけあれば十分だから。』 『…不思議な感じだね。君とはついさっき初めて会ったばかりの筈なのに、ずっと前から一緒にいるようだ。 此処に勇利が居るんだっていうのをとてもよく感じるよ。』 『私も思い出せて良かった。 貴方の事を思い出せなかったらどうしようかなって、本当は此処に来るまでずっと不安だったから。』 『……ユリアナ、って呼ぶべきなんだろうね。今の君は女の子なんだし。』 『どっちでも良いよ?ヴィクトルの好きに呼んでくれたらいい。』 『でも……』 『偶然だけど名前も似てて良かったね。私の事をユウリって呼んでもちゃんと愛称に聞こえるし。』 微笑んでいる姿に面影は重なるが、だがそこに彼女も間違いなく居るのだろう。 ユリアナの笑顔は快活でまるで周りに光が舞っている感じだ。 勇利を月と表すならユリアナは太陽のように自ら輝く光がある。 生い立ちが違うのだから勿論当然なのだが、だからこそ曖昧にしてはいけないのではないか? 『ヴィクトル、何か難しく考えてる?ユウリでもユリアナでも、私にとっては些細な事なのに。』 『些細な事…?』 『だって、“私は勇利”で“僕はユリアナ”だ。此処にある魂は、一つだよ。 目の前にいるのは、唯一無二の貴方の運命なんだから。 だからヴィクトルが思うように呼んでくれたら良いよ。』 自分を呼んで貰えてるって、それだけで僕にとっては奇跡であって凄く嬉しい事だから。 そう言って俺の手を取ってその両手で握りしめてくれた。 此処にある魂は一つ。ならば今の彼女の姿が本来の有り様なのかもしれない。 良くも悪くも勇利の置かれた立場は、彼本来の良さを殺してしまうものばかりだった。 彼が持つ唯一無二のステップも、ジャンプ至上主義の波が押し寄せた事によって余り点数に結び付かなくなってしまった。 番である俺が傍に居られない状況が長引き、また当時の抑制剤はΩの機能を著しく痛めつけるような代物だった。 精神的支えも遠く、肉体的に大きな負荷を与え続けられてどれほど苦しかった事だろう。 命を削られている感覚を覚えながらも、彼は滑る事を止めなかった。 どれ程の決意と覚悟を持って生きていたのか分からない。 そしてこれほど愛に溢れている存在もないだろう。 いつだって俺や入矢を気に掛けていたのだ、今も正にそうだ。 漸く君らしく、本来の姿で生きていけるようになったんだね。 『…イリューシャに、感謝しないといけないね。』 『本当だね。入矢が連れてきてくれなかったら、僕は貴方に会う事すら出来なかった。』 『それだけじゃないよ。俺たちの息子は、本当に凄いよ…』 『どういう事?』 『…あの子はね、俺たちが運命の番だった事。自分がその番から生まれた子である事。 そして、自身が誰よりも強い優れた存在である事。 これらを世界に証明する事が出来れば、世界を変えられるって言ったんだよ。 運命から生まれた自分が誰よりも優れた存在だと知らしめることが出来れば、番への見方が変わる。 そこから生まれる存在が優秀である事が分かっているのに、無暗に番を引き離そうだなんて誰もしなく なるって。イリューシャはお前を追いやったこの世界を変える為に、今まで奔走してきたんだ。』 『入矢……。』 『本当に世界は変わったよ。特にΩへの研究も保障も手厚くなった。 今主流になっている“中和型”って言われてる抑制剤も、番の保護を、Ωの保護を訴える声が強くなって生まれた ものだ。引き金を引いたのはイリューシャだよ、あの子が世界に訴えた叫びがバースを取り巻く環境を動かした のは確かだ。』 『入矢…僕らの、イリューシャが……凄いね。』 『あぁ、俺たちの自慢の息子だよ。』 『…本当にね、今の抑制剤って凄いんだよ。何で僕の時にこの薬が無かったんだろうって思っちゃうくらいに。 ユリアナの身体は女の子だから効き目が良いのもあるけど、でも性能自体が別格だ。 本当に身体が楽なの、すっごく軽いの。あの頃は本当に抑えつけられているみたいで苦しかったのに…』 『以前のものは“抑圧型”って今は言われているらしいよ。 Ωの本能を全て押し殺す、蓋を被せて抑えつけるような作用だったらしい。 “中和型”はαの血液から抽出したフェロモン成分を使って、Ωの発情ヒート時に発散させつつも溢れる誘惑 フェロモンを相殺する仕組みらしい。 Ωに発情ヒートを我慢させずに、Ωフェロモンを唯一中和できるαフェロモンで打ち消す。 今は随分フェロモン型の合致率を高い率で照合出来るようになって、適合出来る薬も見つけやすくなって 普及率も格段に伸びている。』 『詳しいんだね、ヴィクトル。』 『全部イリューシャからの受け売りだよ、俺は彼に協力して血液提供をしただけだ。 αのフェロモン型は一生変わらないからね。 この世界の何処かで、俺の血で救われているΩが居るのなら嬉しいしね。』 『そうなんだ…そっか。イリヤが、作ってくれたんだ。』 この、Ωに優しくなった世界を。 母親の死という衝撃から、彼はずっと考えていたんだろう。 どうやったら、この残酷な世界を変える事が出来るのかと必死になった事だろう。 僕の為にどれだけ身を粉にしてきたんだろう。 『私がユウリの記憶を思い出せたのも、イリヤのお陰なの。 あの記憶が蘇ってなければ…こうして貴方に会う事も出来なかったと思う。』 『そうか。あの子は凄いな、望んだものを全て引き寄せる強運に恵まれている。』 『本当に良い子に育ったね。ありがとうヴィクトル。僕の分まで、苦労したでしょ?』 『俺は親としては大した事は出来てないよ。 ロシアに怪しまれないようにって結局仕事も余り減らせなかったから、イリューシャの傍に居られる時間は全部 コーチをしていた。マーマや真利が助けてくれたんだ、俺の代わりに母親代わりになって育ててくれた。』 『…マーマ?……まり?』 『そうだよ、君のマーマとお姉さんじゃないか。』 『……っ、ママ…と、お姉、ちゃん…?』 何かを思い出そうとしているようだが、どうも思い至るものがないらしい。 もしかしてまだ記憶は全部戻っていないのだろうか。 『ユリアナ、ユーレニカ。お前は何処まで覚えている?…何処まで、思い出せた?』 『……貴方と出会った日、貴方を目指して滑っていた日々。 貴方とイリヤで一緒に過ごした事も、覚えてる…覚えてる、けど…』 『実家は?学校は?スケート以外の事で何をしていた?』 『………分からない。また、靄が掛かってて…上手く、見えない。』 どうやら俺と出会う前の記憶や、スケートに関する事以外の記憶が抜け落ちているようだ。 早々都合よく全てを思い出せる訳がないとは思っていたが、家族の事が思い出せていないのは些か寂しさを覚える。 『どうしよう…ヴィクトル。僕、まだ…』 『焦らなくていい。思い出したいと願っていれば、きっと思い出せるさ。』 そういって優しく抱きしめてその頭部を撫でた。 無理に引き出そうとすると先程みたいに彼女がまた苦しむことになる。 過呼吸で意識が朦朧としている姿を見て、記憶の波に彼女が殺されてしまうのではないかと一瞬恐怖が押し寄せた。 あんな思いをするなら無理に思い出させようだなんて出来ない。 覚えていない事は悪い事ではないと言い聞かせるように、彼女の背中を優しく叩いた。 腕の中で彼女が唇を噛み締めているだろう事が分かる、辛いかもしれないが無理はさせたくなかった。 暫くそうしてあやすように背中を撫でて落ち着かせた。 『弱ったなぁ…僕もう全部思い出せてたと思ってたのに…』 『まだその時じゃないんだよ。大丈夫さ、これから時間はたっぷりある。』 『うん。気付けた事だけ良かったって思わなきゃね。』 『駄目だよユーレニカ。無理をしたら…さっきの君の取り乱し方には、俺もどうして良いか分からなかったんだ。 あんなに苦しそうな君を見るのはもう嫌だ。』 『…大丈夫、無理はしない。何処にも行かないから…そんな顔しないで?』 怯えたように背中を丸めて自身を抱き込んでくるヴィクトルを、今度はユリアナがあやすように頬を撫でた。 失った痛みを受けるのは何時も彼だった、恐れを抱くのも無理はない。 今度こそは大丈夫だと安心させてあげないと、無駄に過保護になってしまうだろう。 『今度こそ、約束するから。離れずに、傍に居るよ。何処にも行かないから…愛しい、ヴィーチェニカ。』 『…約束だよ?もう、俺を一人にしないでくれ…愛してるよ、ユーレニカ。』 勇利の時にもその名を呼んでくれた。 今世の名前が似ていた事をこれほど嬉しく思う事はないだろう。 そう、何時だって彼が呼ぶ自分の名はたった一つの魂を指し示しているけれど。 それでも呼び名が同じである事に運命を感じないと言えば嘘になる。 全部必然の、起こるべきして起こった運命であるのならどれほど嬉しい事だろうか。 とその時だった。空が明るみを増していた事に気付いていなかったから。 一気に部屋に差し込む暖かな光に目が眩んだ。 側面から眩い光が注ぎ込んで部屋中を照らしていく、もう夜明けだった。 『綺麗……まるで神様が祝福してくれているみたいだね。』 そういって光に向かって少女が手を伸ばした。陽光が部屋中に散りばめられるように輝度を増していく。 膨らんでいく光が彼女を照らしたその時、ヴィクトルは視界にあるものを捉える。 少女の首元、己が噛みついた項 嘗ての記憶が蘇る、あの時はこの印の意味が分からなくてただの痣だと思っていた。 『あぁ……本当、だったのか……そうか…そうだったんだね……』 『…ヴィクトル?どうし…ひゃあっ!!』 急に己を背後から抱き込むようにし、自身の弱点である項 何事かと声を荒げようとしたが、余りに幸せそうに首筋に顔を埋めている彼の姿にその言葉を飲み込んでしまった。 息子から教えられてはいたが、まさかそんな事があるのかとこの瞬間まで疑っていた。 彼曰く、運命に噛まれたΩには普通の番では現れない特殊な症状が起こるのだという。 それはαが残した噛み痕の内側に、特異な印が浮かび上がるというもの。 息子のΩにも、そして世界で確認されている他の運命の番のΩにもそれぞれ異なったものが項にあるのだと。 何れもその印がまるで一輪の華のように見える事から、入矢はその印を“運命の華”と呼んでいた。 今ユリアナの首筋にもぼんやりと浮かび上がってきていた。 忘れようもない。それは嘗て勇利の項にあったものと全く同じ印だった。 勇利を、ユリアナを。俺の唯一無二の半身を示すその華の形は。 嘗て俺が『正しく君のようだね』と言っていたのは、花言葉がそれらしいからだけではなかったんだよ。 浮かび上がる桃色とも赤色とも言えるその華は、正しくガーベラの華のようだった。 赤色のガーベラの花言葉は“燃える神秘の愛”、ピンクのガーベラは“崇高美”というらしい。 勇利が示してくれた俺への愛の形をなぞっているようで、俺にとってもガーベラは特別な花だったんだ。 今、君の項に、その華が咲いているよ。 込み上げてくる感涙の波に、ヴィクトルは身体を震わせていた。 後ろ手にその頭部を優しく撫でるユリアナの表情は穏やかで、愛しい人にその頬を摺り寄せていた。 間もなく、夜が明けようとしていた。 「"…で?お前は何時になったら帰ってくる訳?"」 「ごめんよ、ちょっと色々あったんだ。でももう直ぐ終わるから…近いうちに帰るよ。」 「"納得のいく説明が聞ければ良いんだけどな。ったく、この数年まともに帰省した事ない癖に。"」 「ふふっ、ちゃんと話すよ。これからの事にも関わるから聞いて貰わなきゃ困るし。」 「"…おい。お前何かまた面倒な事持って帰るつもりじゃないだろうな?"」 「心外だなぁ、僕が何時そんな厄介事を持ち帰ったっていうの?」 「"よく言うぜ…お前が居る場所先々でテロだの暴動だの起こったって知らせを何度聞いたと思ってるんだ?" "心配するこっちの身にもなれよ、何回生きた心地がしなかったか…"」 「……ごめん、そうだったね。あの時は自衛の手段をまだそれほど持っていなかったから。 今は大丈夫でしょ?なるべく居場所を悟られないように、普段から変装して行動もしてるし。」 「"その変装に、時々女装まで入れてるの。俺知ってるぞ?"」 「えっ、嘘。そんな情報何処で仕入れてくるんだよ。言っとくけど、今はそれほどしてないからね?」 「"十代の頃は寧ろそっちの方が多かったんだろ?んで今でも時々してるってのは知ってるぞ。"」 「仕方ないだろ?何時も男の格好じゃバリエーションにも無理があるし、灯台下暗しっていうでしょ? まさかっていう格好をしてる方が気付かれにくい事もあるんだって。」 「"…まぁ、そういう事にしといてやるけど。"」 「何それ。僕の愛を疑ってるの?変装はあくまで身を守る為の手段に過ぎないよ? 趣味でもなんでもないし、僕が想っているのはずっと君一人だけなんだけど。」 「"……だったら、早く帰って来いよ。何年放ったらかしにしたら気が済むんだ。"」 「……寂しかった?」 「"当たり前だろ。"」 「珍しく即答だね…うん、ごめんね。もうそろそろ全部落ち着きそうだから、ちゃんと帰るよ。」 「"本当だな?"」 「嘘は付かないよ。ちゃんと迎えに行くから、心配しないで。」 「"心配なんか…してねぇよ。"」 「もう、強情だなぁ…そこは素直に頷いてよ。」 「"心配する訳ねえだろ?お前の言葉は、ちゃんと信じてるからな。"」 「…嬉しい事言ってくれるね。何時もそれくらい素直だったら良いのに。」 「"あーもう!!取り敢えず帰国の日程分かったらすぐ連絡しろ!車出してやるから!"」 「迎えに来てくれるの?僕が行くって言ってるのに、せっかちだなぁ。そんなに逢いt」 「"分かったから!!それ以上言うな!!じゃあな!!!"」 「…っ!んもう、本当何時も急に切るんだから。」 元々性格上彼が素直じゃないという事も分かってはいるが、照れ隠しに声を荒げるのは如何なものかと思う。 少しは丸くなったかと思いきや久々の電話がこれだし。 結局“例の進捗の話”をしそびれてしまった。 まぁ良いか、会った時に話して序でにそのまま車で連れて行って貰えば。 此方での用事はほぼ終わったが、向こうに行ってのこれからを考えたらまだまだ準備が幾つか必要だ。 日取りは直接業者に確認を取って、その後落ち着いてから連盟にも声を掛けて… 「あれ、待てよ。となると、シーズンが始まる前にマクミラン博士に話しとかないと駄目じゃん。 うわーあの人電話で片付くような人じゃないもんな…」 一旦帰国をしてしまうと再び飛ぶのは些か時間の都合上タイミングが難しい。 取り敢えず一通りの段取りを説明する為にこの足で先に会いに行った方が良さそうだ。 その後の細かい打ち合わせは電話とメールで何とか出来るだろう。 ごめんよ、帰省の日程はちょっとばかし先延ばしになっちゃうけど許しておくれ。 「一応これも、君の為になる事だからね…」 微笑みながら入矢はメールアプリを起動して、宛先からマクミラン博士を呼び出した。 彼にアポのメールを一頻ひとしきり打ち込みながら、入矢の頭の中では次のステージの展開を巡らせていた。 目的を達成する為には定石を踏むのは鉄則だ。 「さぁ…駒は全て揃った。後は地を固めていかなきゃね。」 確信に満ちた表情で、入矢は目を細めて笑っていた。 シアンブルーの瞳が一体何を映しているのか。 その真意を知る者は誰一人として居なかった。 back close
pixiv連載時はラストの通話シーンは入矢だけが見えてて相手の子の台詞は隠してました。
1ヶ月スパンが空くというのもあったし、ちょっとネタバレかなぁという気がしてて^^; 一気に見るならまぁええかと思って、何が変わるのって話ですが(笑) “運命の華”のシーンは描きたかった場所だったので力入れてます(・ω・)← |