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『そういえば、ホームリンクはどんな所なの?』
『どんな所なんだろうね。』 『えっ?』 『実は2年前から改修工事中なんだ。もう30年以上あるリンクだから老朽化が進んでてね。 でも改修するだけの費用がないって言っててずっと先延ばしになっていた所を、僕とヴィーチャで資金を出し 合って漸く着手したんだ。』 まだ日本国内には日本の有力な選手を率先して育成出来るようなスケートクラブはない。 多くの実力のあるスケーターは海外の名のあるコーチを師に仰ぎ、拠点も海外に移して生活そのものを国外に移してしまってるのが現状だ。 既に土台のあるスケート大国と比べたら今でも日本の環境は先進的とは言えない。 ならばこれを機に世界に誇れるスケートクラブを作れないか、と思い至ったのは必然だった。 生ける伝説リビング・レジェンドと称されたヴィクトル・ニキフォロフをコーチに、新たにその名を冠した息子の勝生入矢が。 日本に新しい風を巻き起こした師弟であり親子が、そのクラブを設立する。 宣伝文句としても十分だろう。 その為の準備を5年前から着々と進めてきた。 計画を始動し始めた時はまだ入矢は十代だった為、表向きの主体はヴィクトルが担った。 新しいリンクを作るとなるとどういった設備が必要なのか、設計だけじゃなく経験者としての意見も必要だ。 ヴィクトルは過去にロシアのチムピオーンスポーツクラブに所属していたから、海外の一門がどういった場所で活動をしていたのかを知ってる。 対して入矢はずっと父と二人三脚で歩んできたから、この小さなスケート場しか知らない。 どちらにしてもヴィクトルに全てを任せる他なかったのだ。 資金だって今でもモデル業や振付師として活動している彼に大方を頼らざるを得なかった。 入矢はその身を隠す為に余り表に出る事が出来ず、本来ならアイスショー出演だったりスポンサー絡みでイベントに出演したりで手に入る筈の資金を得られなかった。 国やバース連合等諸所からの援助がある分それでもマイナスになる事はないのだけれど、やはりスケートリンクを新調、それも今まで通り一般用のリンクも残すとなると土地も資金も莫大に必要になる。 長期的な計画になるからやはり父親に入って貰うしか手はなかった。 素性を明かしてからも入矢が一人で試合に向かっていたのは、この新しいスケートクラブを設立するに当たって必要な手続きや人脈作り、リンクの開発や設計、土地の売買など山ほど詰まれた必要事項を全てヴィクトルに任せる為だった。 必要な資金作りの為にも仕事は減らせず、正直ヴィクトルを以てしてもこの事業には掛かりっきりにならざるを得なかったのだ。 また新たにクラブのメンバーを迎えるのであれば住居も必要だ。 資金の割り当て上は入矢が新居兼メンバーの住まう居住地を、スケートリンクの方はヴィクトルが担っている形だった。 最も、新居の有り様はユリアナを迎えるに当たって予定が変わってしまったのだけれど。 『そう、なんだ…あれ、じゃあこの2年間イリヤはどうしてたの?』 『リンクがあれば何処でも出来るからね。日本にいる時は連盟にお願いしてその時借りられるリンクを転々と してたんだ。まぁ、それも日本選手権とかNHK杯の直前くらいだけどね。 殆どは海外で身を晦ませつつ、友人とか知ってるコーチ達を訪ねてリンクを借りてたよ。』 『お前一時期ロシアのリンク借りてただろ…知らせ受けた時はすっげービックリしたぜ。』 『燈台下暗しって奴だね。まさか自国に堂々と入ってくるとは考えてなかっただろうからすんなり入国出来たよ。 漸くその事実を知ったところで、彼奴らもロシアの精鋭達を巻き込みたくないから、逆に僕に手出しが出来ずに ヤキモキしただろうね。』 『…本当お前性格悪いよな、昔っから自分の掌で踊ってる奴を見て笑ってやがったし。』 『これくらい図太くないと僕は世界の頂点に立ち続ける事も、生きていく事も出来なかっただけだよ。』 入矢は口では何でもないという風に言っている。 だけどホームリンクを転々とするような生活をしながら世界王者を誰にも譲らず君臨し続けるなんて、正直無謀としか言いようがない。 しかしそれをこれだけ軽口を立てながら実際に成し遂げてしまうだなんて、彼は並大抵の精神力ではないだろう。 母を失った反動で手に入れた力なのかと思うと少し悲しくもなるが、彼が悲嘆に暮れている訳でも自身の才に驕っている訳でもないというのは救いかもしれない。 『まぁ、そんな感じで僕もまだ新しいリンクは知らないんだ。 最終調整に入ってるから今月中には滑れると思うよ。だから数日の辛抱さ。』 それよりは当面の住む所かなーと呟きながら入矢は眼前に広がっている海岸線を仰いでいる。 『住むところ…?この町はイリヤの育った町なんでしょ?』 『高校からは福岡の方で一人暮らししてたから、殆ど荷物はまだそっちなんだよね。 本当はリンクの完成と同時に新居も出来る予定だったんだけど…急遽間取りを変える事になったせいで工期が 遅れてるんだ。』 『間取りを変更?』 『だって、リアーナとヴィーチャの暮らす場所も必要でしょ? だから壁の位置を変更して間取りを変えて、寝室や衣裳部屋を新しく造り直してるんだ。 そしたらどうしても1か月くらいは遅れる事になっちゃうらしくって、暫く住む家ないんだよね。 だから僕の荷物も福岡の家に置きっぱなしなんだ。』 『…当面の荷物だけで、他のものはまだ送らないでって言ってたのは、この事?』 『そういう事。』 じゃあ、この1か月は何処で暮らすのだろう? ホテル住まいになるのだろうか、ちょっと待ってそんな資金準備なんてしてないのに。 『…大丈夫だよ、寝泊りする場所に関してはちゃんと話は付けてる。』 『……?』 『この町は僕の育った町だよ。つまり、僕の実家があるって事。 ヴィーチャとリアーナの事も話してあるから、何も心配しなくて良いよ。』 そう言って微笑む入矢の顔を鏡越しに見つめて、自分の中に何かが灯った感覚を覚えた。 入矢が育った場所…実家。 其処に何処か懐かしさを感じていた。 ユリアナはまだ知らなかった。勇利の断片的な記憶の中に映っていたあの光景が何処であったのかを。 彼女はまだその記憶を思い出していなかったから知らなかったのだ。 夢で見ていたあの海沿いの町が、嘗て勝生勇利が生まれ育った故郷だという事を。 Ep.2 お城を思わせるような大きな門構えに白い暖簾が掛かっている。 鷹斗の運転する軽自動車は迷わずその門を潜り抜け、すぐ右手にある駐車場へと進む。 門扉の縁を鈍い光沢を放つ瓦が覆っていて、その並びが中央の大きな建物を囲うように先へ先へと伸びている。 車は駐車場の一番角へと停められて、エンジンを止めると着いたぞと鷹斗が後方に声を掛ける。 だがユリアナの視線は外を眺めたまま、心此処に有らずという風に放心しているように見える。 『リアーナ、着いたぞ?…おい、どうした?』 「しっ。今はそっとしておいてあげて。」 「えっ?」 「…此処は母さんが生まれ育った場所だからね。」 入矢は既に事の顛末をヴィクトルから聞いていた。 彼女が思い出したのはスケーターとしての勝生勇利の記憶で、ヴィクトルや入矢の事などはその中に含まれていたので覚えていた。 だが自分が何処で生まれ育ったのか、何をしてきて何を見てきたのか。 言わば自身のルーツになる部分が抜け落ちている状態だと。 荒療治かもしれないが、結果的に此処に来ることは先の住居の件があって避けられなかった事実だ。 ならば無理やりにでも開いてみようじゃないか。 閉ざされていた、記憶の扉を。 「大丈夫なのかよ…リアーナ、前に思い出そうとして意識混濁したって言ってたじゃねぇか。」 「…多分ね。あの時よりはずっと穏やかだから、心配要らないと思う。 鷹斗、彼女の荷物持ってきてくれる?リアーナに付いていてあげたいんだ。」 「…分かった。」 『リアーナ、こっちだよ。』 放心しているユリアナの手を取って入矢が先導する。 伝統的な日本家屋、格子状のガラス張りの戸には《天然温泉 かつき》と書かれた暖簾が掛かっている。 頭に触れるその白い布を掻き分けるように、その先にある戸へと手を伸ばした。 ガラガラと音を立てて戸が右へと開いていく。 「ただいまー帰ったよー。」 穏やかなオレンジ色の証明に照らされた空間はいつも変わらない。 茶色と赤で装飾された、昔ながらの温泉宿の光景がそこにあった。 奥の方から金髪の女性が出てきた、少し眠たそうな顔で生え際からは黒髪が覗いている。 「おかえりー入矢。早かったね。…その子がユリアナちゃん?」 「そうだよ。Juliana.She is my aunt,her name is Mari.」 「…Mari.Nice to meet you. 「Nice to meet you too. そういって真利は奥の食堂の方へ消えた。 もうすぐ忙しくなる夕方で食事の準備をしているんだろう。 横目でユリアナを見やると、彼女の後姿をじっと追っていた。 真利の姿が奥に消えるとそのままゆっくりと辺りを眺めていって、そしてある扉を見つける。 まるでそこに吸い寄せられるように、靴をその場に脱ぎ捨てるととぼとぼと板間を歩いて行った。 先に何があるのかをまるで分かっているかのように、迷わずに進んでいく。 「…おい、良いのか?一人で行かせて。」 「寧ろその方が良いんじゃないかな?きっと少しずつ思い出してる所だよ。」 「お前、何か全部分かったような言いっぷりだな。今迄やってきた事といい、確信犯か?」 「まさか。運命っていうのがあるなら、起こった事が全部必然だったってだけだよ。」 その時玄関のすぐ横にある事務所の格子窓が開いた。 其処に居たのは笑顔が柔らかな老齢の女性だった。 「おー入矢、帰かやったか。おかえりさ。鷹斗君も久しぶりやねぇ。」 「お久しぶりです、寛子さん。」 「ただいま、お祖母ちゃん。今日は元気そうだね。」 「そうさねぇ。入矢が久々に帰かやってきよるから、ちゃあんと出迎えたかったんよ。 そいやぁ、ヴィっちゃんはどがんしたと?」 「ヴィーチャはロシアに寄る用事が出来たんだって、遅れて帰ってくるよ。」 「そやったかーそいぎ、今日はユリアナちゃんだけかいね? がばいやーらしかとても可愛い娘さんや言うとったからねぇ。楽しみにしよったんよ。」 「ところで入矢、そん娘さんは何処さ行ったんだ?」 後ろから老齢の男が更に顔を出した。 最近腰が痛いと言って奥の家の方で休んでいる事が多かった祖父が今日は店に立っている事に入矢が驚く。 祖母も元気ではあるが既に70歳を越えているので体力の衰えから、店の方は娘夫婦に殆ど任せっきりの日々だった。 そんな二人が揃いも揃って事務所に出ているだなんて、珍しすぎて驚くしかない。 「お祖父ちゃんも起きてたんだ。今日は身体大丈夫なの?」 「今日は皆が久々に揃うって思ったが、急に身体が軽ぅなってのー元気になってしもうたばい。」 「入矢、あんたからも言ってやってよ。 昨日まで起き上がるのもやっとだったのに、無理するなって。」 揃いも揃って出迎えようと事務所で待っててくれたのか、もしかして何か感じる所があったのだろうか。 家族には彼女の事は今年から僕と一緒になるリンクメイトでヴィーチャが直々に指導する事になった二人目の生徒だ、という事しか説明していなかった。 僕には鷹斗という番がいる事は皆知ってたから、世間のように僕と彼女がお近付きになった、というような認識はしていない。 スケートにも相変わらず無頓着な一家なので、ヴィーチャが僕以外の弟子を取った事がどれだけ世間から見たら驚くべき事なのかも多分分かっていない。 記憶がある事を言わなかったのは、万が一彼女がこの家に来て“勇利の記憶”を思い出す素振りが無かった場合に備えてだ。 最後の“鍵”が実家だと僕は思っていたけれど、万が一既に様相の変わってしまったアイスキャッスルはせつだった場合は取り戻す術がない。 思い出せない事を悔しそうにしていた彼女の姿を見ているし、20年近くの歳月が経った今記憶の共有も出来ないのに彼女が生まれ変わりだと家族に告げるのは互いに酷であると思ったからだ。 結果的にはその心配は要らないだろう。 薄く微笑む僕の様子によく似た顔がそれぞれ首を傾げていた。 「…どうしたのさ入矢。何笑ってんのよ。ていうかユリアナちゃんは?一人で何処に行かせたのさ。」 「彼女なら大丈夫だよ。多分今頃思い出を一つ一つ拾っていってるから。」 「……思い出?彼女家に来るの初めてでしょ?一体何の…」 「そう言えば、何故彼女が此処に来ることになったか言ってなかったよね。」 「…ヴィっちゃんが二人目の生徒さんば取らす事になったからじゃなかと?」 「その、生徒を取ろうとした理由の方だよ。ヴィーチャが僕以外のコーチになる気はないって話したでしょ?」 「おーそういえば、昔そがな事言うとったの、思い出したばい。」 「んだば…なして今頃新しい生徒さ迎える事にしたとね?」 「…彼女はね、ヴィーチャの新しい運命なんだ。」 その言葉に祖父母も伯母もきょとんとした顔をしていた。 皆βだから番とか運命の話をしてもイマイチピンとこないらしい。 それでも母さんがヴィーチャの運命だったという事に関しては、母さんの彼への思い入れをよく知ってるから漠然とそういうものだと受け取っていたようだ。 「えっと…運命って確か一人しか居ないって話じゃなかったっけ?」 「そうだよ。」 「…勇利はヴィっちゃんの運命やなかったばい?」 「勿論、母さんは間違いなくヴィーチャの運命だったよ。」 「ほだら…ユリアナちゃんばまた運命ってどういう事さね?」 「そのまんまの意味だよ。彼女もやっぱりヴィーチャの運命だ。」 益々分からないと言わんばかりの顔をして、真利伯母さんは更に眉をしかめていた。 祖父母はどういう事なのか分からないという感じで丸い目を更に真ん丸にしている。 「……何故彼女がヴィーチャの新しい運命なのかが分かったのか。それは“記憶”があったからだよ。」 「“記憶”…?」 「そう、母さんの。“勝生勇利”の記憶だよ。ユリアナは僕の事を僅かだけど覚えていた、それで僕に会いに来て くれたんだ。…そして僕がヴィーチャと引き合わせた、だから全部、分かったんだ。」 母さんの名前を出して、3人とも更に目を見開いて驚きを隠せないようだった。 αだのΩだの、ましてや運命だのを説明したところでβの家族には実感がないだろう。 だけど、記憶を持っているという事を話せば心が感じるだろう。 転生という夢のような話が現実にあって、彼女の中に勇利がいるかもしれないのだという事を悟るには十分だ。 「今ユリアナは失っていた記憶…いや、自身に封じられていた記憶を辿っている所だと思う。 まだ肝心な所を思い出せてなかったんだ。自分が何者であるのかという事を。」 勝生勇利という人間のルーツを、本当の自分がどんな人間であったのかを。 渡り廊下をとぼとぼと歩いていく。 季節は春も盛りを過ぎて初夏の色が徐々に見えてくる頃で、左右に広がるさながら日本庭園のような中庭も新緑の色が広がっていた。 あくまで個人経営の店の庭園なので莫大な費用を掛けて手入れをされているものとは比べ物にはならないが、食事処の窓から見える場所なので最低限の装いは保っている。 この渡り廊下は私邸への入り口になっているので、入り口のその扉には[関係者以外立ち入り禁止]という文言が記されている。 だから客人を含む外の人間が此処を訪れる事はない。 静かな廊下をストッキングを纏っただけの素足で踏みしめながら歩いていた。 沈み始めていた太陽の光が西から差し込んでいて、辺りを仄かに橙色に照らしている。 知っているようで知らない空間だった。 歳月を経て植わっている植物も変わり、庭の置き石なども位置が変わっていたり置物が増えていた為“記憶の場所”との相違があったのだ。 (この場所を…僕は知っている?) じわじわとせり上がってくる何かが自身を満たしていく感覚を覚える。 歩みを進めていくうちにその先に何があるのかを漠然とだが認知できるようになっていった。 正面の階段を上がればあの部屋がある、いやあった筈だ。 だがその先に進もうとは何故か思えなかった。 もうこの先に自分が求めているものは何も残っていないという直感があったからだ。 じっと階段を見上げていると、左の方から何かが呼んでいる声が聞こえた気がした。 この先には何があったんだっけ? 満ちていく感覚に頭がぼぅっとしていて、何かを認識し強く思考する事もなく導かれるままに其方に歩を進める。 陽が差し込んでいる渡り廊下と違って、曲がった先は締め切られた部屋に挟まれた廊下だった為薄暗がりが広がっていた。 ぼんやりと浮かび上がっている、廊下の目地が作り出す縦の線に導かれるように進んでいくと、右側の隙間から光が漏れている。 ユリアナは開け方を知らない筈の戸を迷うことなく横に引いた。 目の前に広がる空間は煤けた畳が敷かれている。 い草独特のツンと鼻に存在を主張する匂いが瞬時に自身を襲い、夕陽の暖かな明かりに眩んだ目が次に捉えたのは茶色い背丈の低い机。 そうだ、何時も此処に座って何気ない会話を楽しんでいたんだっけ。 でもそれは“僕”ではない、だって人と接する事が苦手で彼らとも何処となく縁遠い生活だったんだ。 此処には何時も僕じゃない誰かが居た筈。 ぼんやりとその姿が脳裏に見えているのに、顔がハッキリと見えない。 楽しそうな声も随分遠くから響いているようで雑踏の一部に沈んでしまう。 誰だ、そこに居るのは…大切な人たちだったはずなのに…まだ霞が取れない。 苦し気に眉間に皺を寄せ、目を凝らしたその先のものに焦点が合う。 この部屋を横切るように進むと更に奥の部屋がある事が分かる、また扉があるからだ。 この先は…確か… 奥の部屋を見た瞬間にふわふわとしていた思考が停止する。 これが何であるのか知識としては知らない筈なのに、何故かどういう物であるのかを知っているような気がした。 彼女は今世の記憶と前世の記憶の狭間で、今の己が必要としている情報を精査して手繰り寄せていく。 四角い茶色の箱のようなもの。内側に施された荘厳な装飾がただの木の箱ではない事を主張する。 樒しきみはまだ供えられてから然程日にちが経っていないのだろう、濃い青々とした緑色の葉を茂らせていて。 日中に線香を焚いた形跡が残っている、漂う残り香がそれを物語っていた。 浮かび上がるように光を散らす夕陽の線の向こうに見えるのは、額縁の中に収められている1枚の写真。 年月を経て色褪せてきてはいたが、セピア調の写真だと思えば味わいのある色合いのもの。 ゆっくりと近付いていき、少女はその前にしゃがみ込んだ。 そこに映っているのは、茶色い1匹の小さな犬と…まだ幼さを残した、一人の少年の姿。 それを見た瞬間にじわじわと溢れ出していた記憶の波が一層強く己の中に沸き立った。 記憶と同時に溢れ出る雫が幾度も頬を伝っていく。 じりじりとせり上がってくる衝動を込み上げるように唇が小刻みに震える。 どうして今まで忘れていたのだろう。 何故こんなにも記憶の奥底で深い眠りに付いていたのだろうか。 同時に後悔と寂寥感に襲われて少女は肩を震わせた。 前世の記憶をこれほどまでハッキリと思い出す事は、通常叶わない筈だ。 前世の己の根幹部分は必ず現世の記憶と意思に反発を齎すからだ、今を全て否定しかねないもう一つの人生の形なのだから。 分かっている、これまで全てを受け入れられたのは今ユリアナとユウリが一つになっているからだ。 それでも抱えきれない記憶を一気に手にしてしまったせいで上手く受け止めきれない。 身体の震えが止まらず、嗚咽を押し込める事も出来ずにただただ涙する。 足音が段々と近付いてくる。 速い音が一つ、その後にゆっくりとした音が二つ。 半開きになっていた襖が大きく開かれ、少し乱れた呼吸が順番に折り重なる。 少女は己の背後に気配を感じ、ゆっくりと振り返った。 真っ先に部屋に飛び込んだ真利は、差し込む光の影に潜んでいる姿を凝視する。 少女は欧州の出身だというのに姿勢の整った綺麗な正座で仏壇の前にいた。 その後姿が、数年ぶりに帰ってきてこの仏壇の前で愛犬の死を弔っていたあの姿に自然と重なる。 あの時と同じように、あの写真と対峙していたからだ。 真利がその過去の映像を脳裏に映し出している間に、遅れて寛子と利也が後ろから飛び込んできた。 そこにユリアナが振り返る、瞳に涙をいっぱい溜めて。 それぞれにこの20年以上の歳月を経て姿が変わっていた。 だが皆面影が残っている。嘗ての、記憶の向こう側の姿にゆっくりと今の容姿が重なっていく。 合わせ目がゆっくりと形を一つにしていく中で、また湧き上がるように思い出が溢れてくる。 止め処なく、絶え間なく、そして全てが己の内を満たしていく。 そうだ…僕は勇利、勝生勇利。この家は僕が生まれ育った場所。 そして今目の前にいる人たちは… ユリアナの唇が震えの狭間で声を紡いだ。 「……おっかぁ…さっ…、ぉとぅ…さっ……まり、ねぇ…ちゃ……」 「…っ!!勇利!!!」 写真を手に大粒の涙をぽたぽたと流しながら、声を震わせるその姿を真利達は見つめ。 その老いた中に嘗ての姿が蘇り懐かしい人たちが其処に居るのだと気付いて少女はまた涙する。 互いに確信を得るには十分すぎるほど“そのまま”だったのだ。 真っ先に飛び込んだ真利が少女を抱きしめる。 遅れて重い身体を引きずるように寛子と利也が飛び込んでいく。 互いに言葉という言葉を発する事もなく、歓喜に満ちた涙を流しながら抱きしめ合っていた。 僕…やっと、帰ってこれたよ。 少女のその言葉は音にならなかったが、3人の心にはちゃんと届いていた。 back next close
記憶は簡単には戻らないものだけど…でもやっぱり思いださせてあげたいよねっていう気持ちはあって。
構成を考えている時に実家に帰ってくるシーンは必然的に作れるなって思って。 なのでこのシーンは割と早い段階で決めていました、実際に描写するのは凄く骨が折れましたけど^^; そしてもっと英語が書けるようになりたかったなと思ったところでもある← |