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国際間の飛行機とはいえ利用者がそれほど多い訳ではない。
その上3時間ほどのフライトだから使われる機体も小型のものだ。 この機体にはファーストクラスはないようで、辛うじてビジネスクラスの座席がほんの少し用意されているだけ。 彼女に悪いなと思いつつその座席を2つ押さえたのだが、来る時はエコノミーだったから気にしなくていいと言われてしまった。 現役の頃と比べると収入も減っていたし、今は“ある所への投資”で注ぎ込んでいる。 入矢からは度々節約出来る所はしてくれと言われているが、中々若い頃に癖付いた金遣いは変わるものではない。 これでも引退してからはビジネスクラスで手を打ってきたつもりだ。 エコノミークラスでは座席も狭いし俺の体格では辛い所があるからね。 そう豪語すると彼は何時も渋い顔をしていたな。 俺とユリアナは彼女の祖国であるフィンランドに向かっている。 普通であれば番になる前にご両親には挨拶を済ませるのだろうが、俺たちのように運命の場合はどうしても順序が逆になる。 これからの彼女の人生を預かるのだから、やはりきちんと話をしなければならないだろう。 しかし歳の差もあって俺の気持ちは些か下降気味だ。 彼女の両親に受け入れて貰えるのかというのは厄介な悩みの種だ。 だというのに彼女は先程から楽し気にメニューを眺めている。 朝のフライトとあって朝食が機内で振舞われるのだが、ビジネスクラスだとメニューが選べるらしい。 今までエコノミーばかりだったようでこのような経験がないらしく、紙面を眺めている目はキラキラと輝いていた。 『凄い、6種類もあるんだって。ね、ヴィクトルはどれにする?』 『…ユウリ。はしゃぐのは良いけど、俺たちこれから何しに行くのか分かってるよね?』 『大丈夫だよ、ちゃんと私の両親に素敵な人だって紹介するから。』 『…それだけじゃ済まないだろう。俺たち幾つ離れてると思ってるんだ。』 『…34歳差だね。』 『そうだ、君のご両親より俺の方が年上じゃないのかい?』 『あー…そうだね。父さんは36歳で母さんは38歳だし。』 『ワーオ、思ってたより離れてるね…若いご両親だ。それにしても母親の方が年上なんだね。』 『うちは父さんがΩで母さんがαだからね。あ、因みに妹はαだよ、今年で12歳。』 『もうその歳でバース性が分かってるのかい?』 『そうみたい。未分化扱いのβと違ってαとΩって二次性徴が始まる少し前くらいからもう分かるんだって。』 Ωなら既に子宮の成長が見られるしαフェロモンの受容体を唯一持っているので二次性徴が始まった頃であれば検査でも判る。 αもΩ同様に男性器の早い成長や血中にαのフェロモンが検査で確認できるようになる。 バース性の研究が進むにつれて早くから己の性が判明している子には適切なバース性の説明を、というのが今の世界での慣習となってきている。 『私も11歳の時にはもうΩだって分かってたから、αとΩの事は色々説明を受けた。 …運命の番の話を聞いた時、ヴィクトルの事を思ったよ。 そう言えば丁度入矢が自分の出生の事とかを発表した頃だったかな?』 僕が死んでからの貴方の様子を聞いた時には凄く心苦しくなったよ。 哀愁の色を滲ませてユリアナは微笑んでいた。 『ユウリの頃から考えれば凄く長かったけど、貴方を目指して滑り始めてからだとたった5年くらいの 事なんだよね。』 『今のお前にとっては5年は大きいじゃないか。』 『それも今だけだよ。時を重ねれば、そんなのあっという間だ。』 『…お前に言われると、俺が過ごしたこの20年程もあっという間扱いされそうだ。』 『ふふ、僕と一緒に居たかったら長生きしてよねヴィクトル。』 『はははっ、お前の為にもそうしないといけないね。』 互いに今を生きるのが精一杯だったから、勇利とこんな風に楽しく会話をした経験が少なかった。 お前に生を謳歌する心のゆとりがあればきっとこんな風に楽しかったんだろうな。 時間が掛かってしまったけれど、俺たちは漸く番らしく歩み始められたんだろう。 『…心配しなくていいよ。私の両親も番だから、運命だって言えばきっと分かってくれる。 入矢が世界に公表した僕ら家族の事も知ってるから、最後には祝福してくれると思うよ。 まぁ、最初は信じられないって言われるかもしれないけど。』 『そういえば、こっちに来るとき家族には何て言って来たんだい?』 『…運命かもしれない人が居るから、確かめに行ってくるって言ってきたよ。 あと連絡なしに帰るっていう訳にもいかないし、その人を連れて帰るって報告もしてある。』 『ははっ、つまり今更逃げる訳にはいかないって事だね。』 『逃げちゃうの?』 『まさか。ちゃんと君の両親に向き合うよ。』 命の重みを知っているからこそ、きちんと話さなければいけない事は重々承知している。 理解してもらえるかどうかは分からないけれど、彼女を番にしてしまった責任は最後まで果たさなければ。 『大丈夫だよ。運命は唯一無二の繋がり。僕の一番の幸せは貴方の隣じゃないと得られないんだから。』 私からもちゃんと伝える、貴方だけには背負わせないから。 肘掛に乗せていたヴィクトルの手の上に自分のものを重ねて、少女は優しい笑みを浮かべる。 その腕を反転させて彼女の掌を己のものと合わせて握り返す。 一抹の不安はあるけれども、これからも二人で手を取り合っていけば良いのだ。 そうして二人は束の間の旅路でお互いを確かめ合うのだった。 Ep.1 海外と行き来するのは最早日常だし、つい先日も帰国の際に利用した。 10年前と比べれば改修工事や増築工事で様変わりしていて、それらの工事も2年ほど前に完了したところだからどこもかしこも小奇麗だ。 4月も下旬の頃、僕は福岡空港に足を運んでいた。 2日ほど前に確認を取ったら、ユリアナだけが先に此方に飛ぶとの事だった。 ヴィーチャは此方に戻る前に一度ロシアの方に行かなければいけないらしく、彼方の空港から別行動を取ったらしい。 となれば此方に不慣れな彼女を迎えに行く他ない。 予定通りに飛行機は到着したようだから、もう暫くすればこの到着ロビーに現れるはずだ。 入国審査自体は短いものだが、運が悪いと自分の荷物が最後の方に降ろされてしまって随分待たされるなんて事がある。 荷物は当面の生活分だけにとは事前に話してはあるけれど… (拠点を移すってなるとまぁそれなりに大荷物だよね。) 番になった以上ユリアナはヴィーチャと長期間離れる事が出来ない。 そして仕事等で度々海外を飛ぶとはいえ、僕らの拠点は此処日本だ。 ならば必然的に彼女が此処にやってくる事になる。 形としては僕と同じく、ヴィーチャをコーチに迎えてユリアナは今季シニアに参戦するというシナリオだ。 先に発表をされてしまうと動きにくくなる為、発表自体は彼女を此方に迎えて落ち着いてからにしようとしている。 あぁでもきっと国際スケート連盟ISUから“彼らにとって”都合のいい形の発表になるんだろうな。 ヴィーチャが帰ってきたらこれからの算段について話しておかなきゃ。 『イーリャ!来てくれたの?』 声のした方に視線を向けると、大きなキャリーカートを引いた彼女の姿があった。 荷物を無事に受け取って出てこれたようだ、思いの外早かった。 今日は変装の類は一切してなくて、彼女の前でも掛けていた例のサングラスだけだったから直ぐに分かったみたいだ。 レンズの色も薄くなってて目の色もよく見れば分かるからね。 倒さないように重心を確認しながら、小走り気味で彼女は此方にやってきた。 『当たり前じゃないか。長旅大変だっただろ?歓迎するよ、ようこそ日本へ。』 『…ありがとう。これから宜しくね、イーリャ。』 『疲れたでしょ?荷物持つよ。』 『あっ…待って、シャトルバスってそっちじゃないでしょ?』 『バスと地下鉄じゃ更に長旅じゃないか。車待たせてあるから、こっちだよ。』 ロビーを横切るように歩いていき、一番北側にある出入り口へと向かう。 まさか迎えがそこまで準備されているとは思っておらず驚くしかない。 慌ててユリアナも彼の後を追っていった。 『そういえば、ヴィーチャは君の事何て呼んでるんだい?』 『“ユウリ”って呼んでるわ。私もその方がしっくりくる事が多いし。』 『予想通りだね。僕も愛称ニックネームで呼んでもいい?折角家族になるんだし。』 『良いよ、私もイーリャって呼んでるし。』 『やっぱり愛称で呼ぶと特別な感じがするよね。そうだな…リアーナ、どうだい?』 『リアーナ…呼ばれた事がないから新鮮な感じ。』 『確かこれもロシアでの略称の付け方なんだよね。変かな?』 『イーリャは日本人なのにって思うくらいかな?』 『半分はロシア人だよ?一応ね?』 『ユウリは呼びづらい?』 『僕にとっては母さんを呼び捨てにしてる感じがするしなーそれにヴィーチャと同じじゃ何か嫌だし。』 ヴィーチャはコーチだからこれからも一緒にいるだろうけど、僕ももう成人した立派な大人だ。 新しい道を歩き始めた二人の邪魔はなるべくしたくないし、ユウリって呼ぶと何だか二人の世界を壊しちゃいそうな気にもなる。 二人だけの呼び名ってやっぱり特別だと思うしさ。 『良いよ、リアーナ。凄く可愛いし。』 『今日はリアーナの歓迎会も用意してるから。疲れてると思うけど夕飯までは頑張ってね。』 『歓迎会?本当?わぁー楽しみだなぁ!』 満面の笑みを浮かべながら彼女は全身で喜びを表現していた。その様子を見ながら入矢も嬉しそうに笑っていた。 嬉しさ半分、企み半分だけれど。 今日わざわざ変装せずに迎えに来たのも、二人で一緒にいる所を目撃させる為だった。 ホームリンクまで引っ込んでしまえば暫く他人の目に留まる事はほぼない為、これがシーズン前最初の“情報”になるからだ。 そんな入矢の思惑を、ユリアナはまだ知る由もなかった。 ガラスの自動ドアを潜り抜けると、幾つかのバス停と客待ちのタクシーが軒を連ねていた。 その並びの一番後ろにブルーシルバーのワンボックスタイプの小型車がぽつんと停まっていた。 丁度この一番端の出入り口から出ると左側に曲がって少し歩いた先で、その車以外に個人のものと思われる車は他にいない。 そして入矢が迷いなくそちらに向かっていくから、これが迎えに用意してくれた車のようだ。 入矢はバックドアに手を掛けて、積み込む為に大きなトランクを身体に寄せた。 『先に後部座席に座ってて。荷物積み込んでおくから。』 『うん、分かった。』 入矢に促される形でユリアナは助手席側から後部座席のドアを開ける。 スカートの裾を整えながら手前に座り、扉を閉めて前に向き直った。 そしてそこで彼女は初めて気が付いた。 自分以外の人間がこの車内にいた事に。 ルームミラーに此方をじっと見つめている切れ長の目が映っている事に。 第三者が同乗する事を全く想定していなかった少女は驚きに言葉を失ってしまう。 年の頃合はイリヤと同じくらい、彼とはまた違った精悍さのある青年だった。 (どうしよう…日本語話せないのに…) 勇利の記憶も全て戻っていないし、母国フィンランドにはフィンランド語があるので母国語はやっぱり日本語ではない。 日本に来ることになったのもこの1か月程でトントン拍子で決まったようなもので、当然ながら日本語の言語能力なんてものは持っていない。 島国である日本は外界との隔たりが大きく、今でも母国語しか話せない国民は多いと聞く。 主だった観光名所では随分英語が浸透しているとの事だが、一般市民は未だそうではないらしい。 困った、挨拶の言葉くらい覚えてくるんだった。 『…アンタがユリアナだな?』 『えっ…あ、うん。英語、喋れるの?』 『日常会話程度なら話せる、心配しなくていい。』 『良かった、言葉が通じなかったらどうしようかって思って… 初めまして、私はユリアナ・ネヴァライネン。貴方は?』 『俺は古川鷹斗。まぁ、今日はお前たちの運転手だと思ってくれればいい。』 『貴方はイリヤの友達?』 『…それは、まぁ……うん、何ていうか……』 『……?』 何処か歯切れの悪い物言いに少女は首を傾げる。 こんな所まで赤の他人である自分を迎えに来てくれているのに、彼の友達だってすんなり言い切れない関係って何だろう。 とその時、バックドアを閉めて助手席に回ってきた入矢がドアを開けた。 『鷹斗、これから僕ら家族になるっていうのに何その態度?彼女に失礼じゃないか。 僕との事もすんなり言い切ってくれないし、傷付くなー』 『煩い…俺に今更そういうのを求めるな。』 『…家族?』 『ごめんねリアーナ。鷹斗ってば何時もこんな仏頂面だけど怒ってる訳じゃないから。 ちょーっと愛想が良くないだけで、根は優しい良い子だから。』 『おい、良い子って何だよ。愛想が悪いっていうのも余計だ。』 『それで愛想が良いって全然言えないと思うんだけど。』 仲が良いのか悪いのかよく分からないが、普通の友達以上の関係なのだろうなという事は分かる。 お互い気を許しているだろう事は十分察せるし、己の素性を世間にひた隠しにしている入矢が傍に置いているのだから。 隣に座る入矢と比べると体格も良い、身長は170pくらいはあるだろうし鍛えてある身体をしている。 勿論ロシア人の血が入っている入矢に比べると一回り小さい印象はあるけれども。 『前に僕に番が居るって話したの覚えてる?鷹斗の事だよ。』 『えっ!?……タカト、貴方Ωなの?』 『あれ、驚くのそっち?』 『だって…タカトは全然Ωらしくないわ。匂いもしないし。』 そう、全然Ωらしい特徴がないのだ。 抑制剤を服用する反動から、基本的にΩといえば小柄で華奢で。 遺伝子のなせる業か見た目は大体加護欲をそそる様な姿である事が多い。 またΩの二次性徴は早く、どうしても番を見つけるまでに時間が掛かる。 長くフリーの時期を過ごしていると精神的に内気になる者も多く、Ωといえば往々にして大人しく控えめで人に隠れるように生きている。 大して彼はαのフェロモンを漂わせていればαだといっても頷けるような様相だ。 がたいの良さもさながらその顔付きも自信に満ちた風に見えるのだ。 てっきりβだと思っていただけに驚きを隠せない。 『…言いたい事は判る。俺は元々βで後天性だからな。 最初の発情も高3…18歳になる年だったから二次性徴も殆ど終わってたようなもんだ。 其処の馬鹿のせいでフリーの期間も短かったから、精神的にはβの頃と殆ど変わらねぇし。 抑制剤の長期服用の“副作用”とやらとも無縁だったからな。』 『ちょっと、馬鹿って何だよ。学校で発情 あの時僕がどんな気持ちで鷹斗の部屋に入ったと思ってるの?』 『あーうるせぇ…荷物積み終わったんならとっとと出るぞ。』 これ以上そこの話を広げられたくないのか、会話しながら入矢がシートベルトを締めた事を確認すると鷹斗は車を発進させた。 ぶっきら棒に吐き捨てていたが、ちょっとだけ頬が赤いような気がする。 『リアーナ、悪いが後部座席でもシートベルトは必須なんだ。締めてくれるか?』 『あ、うん。分かった。』 『あれ?鷹斗もリアーナ呼びなの?』 『お前がさっき言ったんだろうが、これから家族になるって。』 『ふふっ、良いよ別に。私も呼んでくれて嬉しいし。』 そういうと彼はミラー越しに視線をチラリと向けて、また視線を前方へと戻した。 確かに表情の変化が余りないのと常に目付きが鋭い為分かりにくいが、彼なりに自分にも気を許してくれている事は何となく分かった。 空港前の道路は大きく円を描いていて、緩いカーブを曲がりながら進路を北へ変えながら走っていく。 『あっ、自己紹介まだちゃんとしてなかった。えっと…』 『プロフィールで公開してる内容なら必要ないぞ。 これでも此奴の番だからな、主だったスケート選手の事は知ってる。』 『じゃあ、何処から説明すればいい?』 『んーヴィーチャの番になった所くらいかな?』 『…そう言えば、勇利さんの生まれ変わりなんだってな。 だいぶ記憶戻ったって聞いたけど、実際どんな感じなんだ?』 『うーん、一言では言いにくいけど…ユリアナとして生きてきたこの16年間もちゃんと覚えてるし。 あの可愛かったイリューシャがこんなに大きくなったんだなーって思うと、凄く不思議だよね。』 『それ今の僕が全然可愛くないって事?』 『そりゃそうだろ…ヴィクトルさん程じゃないけど、お前十分デカいっつーの。』 『えーこれくらい普通でしょ?日本人の平均が小さいだけだって。』 入矢は身長178pの美丈夫な青年だ。 身長だけなら日本人でもこれくらいの背丈の者はいるだろうが、やはり白人の血が混じってるだけあって骨格が違う。 鷹斗が言いたい事は多分その体格の違いの事だろう。 『リアーナは典型的な今のΩって感じだな。何時から中和型使ってんだ?』 『12歳の終わりぐらいからかな。でもその前からΩって分かってたから、適合する型を見つける為に初発情 丁度新しい抑制剤が誕生した所だから試してみないかって言われたのもあってね。』 まだ一般向けには出回ってなかったが、スポーツ選手だったり技術者だったり。 国に対して何かしらの恩恵を齎す者に対して優遇措置が取られる事が多く、新薬を勧められる事もその一つだ。 国の期待を背負える可能性のあるΩだったユリアナには真っ先に声が掛かった。 ――それくらい優秀だと言われるΩはまだ世界には少ないのだ。―― 『もしかして“一世代”の出始めから使ってるのか?』 『うん、そうだよ。今の新型に何度か変えようと思ったんだけど…他のものが結局合わなくて。』 『…じゃあ、去年のグランプリファイナルで調子が悪かったのも薬を変えたせいだったり?』 『そう、何時もはオフシーズンで大体試すんだけど…今度こそ合うかもっていう薬だったから。 今からでも変えられたら…少しは伸びるかなって思って…でも駄目だった。 結局身体に合う他の抑制剤が見つからなくって何時ものに戻った所よ。』 “一世代”というのは、“中和型抑制剤”が出始めた頃の初代シリーズの事だ。 Ωにとって画期的な薬だった事と、事前検証でフェロモン異常だったり身体の拒絶反応等の危険な副作用を起こす要因が無い事が功を奏して。 通常なら数年掛けて臨床実験が行われる筈のものが僅か1年ほどで世に出回る事になった。 この抑制剤の広告塔として実は入矢が起用されていた。 彼が世界に発信した番の保護を訴える声明が世界中に流布し、知名度が高かったからだ。 その声明に多くのαが賛同していた事も功を奏して協力者は多く集まり、α遺伝子のデータベースもある程度のサンプルを集められるまでに至って順調な滑り出しだったが… 普及して3年程経った時、欠点になる事象が見つかった。 服用していたΩが一様に小柄で華奢な、成人してもまるで子供のような体格になってしまう事が分かったのだ。 原因はαの血液からフェロモン成分を抽出する際に使用されていた溶剤で、その成分に発育阻害を引き起こす作用がある事がこの時初めて判明した。 昨今出回り始めた“二世代”はこの事件発覚後に改良されて溶剤の使用量を減らして作ったものなのだが、その分1錠当たりに含まれるαフェロモンの量が従来の半分程度しかない為発情 適合する型に巡り会えばそれなりには効果があるものの、そうでない場合にはΩフェロモンを上手く相殺出来なかったり、場合によっては従来の“抑圧型”と似たような症状も起こる。 なので結局“一世代”も現状はそのまま使用されている。 Ωが華奢で小柄であっても結局αの加護欲をそそるだけだから、その事自体で問題になる事は然程ないとの見解からだ。 それ以上に中和型はΩの発情 また二世代は出始めたばかりで使われているαフェロモン型の種類も少ない為、結局“一世代”の抑制剤を欲する声は止まなかった事もある。 『他の抑制剤だとどうしても身体が重くなってしまったり、吐き気や熱があったりして… ずっと飲んでた薬が良すぎたのかもしれないけどね。殆ど発情 だから他のものに変えた時の反動も何だか大きくて…』 (殆ど感じないくらい…?) その言葉に入矢はふと疑問を持った。違和感の要因を探る為に記憶を辿る。 『なるほどな。でもこれからはどうするんだ?番が出来たら今までの薬使えなくなるだろ?』 『…あっ、忘れてた。そうだ、これからどうしよう…』 そう、中和型抑制剤はαフェロモンを使用している。 番を持ったΩは相手のαの為に己のフェロモン型を変容させてしまう為、それまで使っていた抑制剤はほぼ身体が受け付けなくなってしまうのだ。 これが中和型のもう一つの欠点であり、酷い場合は拒絶反応から嘔吐や発熱を引き起こす場合もある。 運よく番のαのフェロモンを使用している中和型抑制剤が存在すれば其方に乗り換えるだけで済むのだが、まだ発展途上の薬なので全ての型の登録は当然なくて多くの場合は乗り換える薬がない状態になる。 その場合は暫くの間番のαに発情期を共にしてもらってやり過ごすか、従来の抑圧型を使用するしか現状手立てがない。 『今どれくらいだっけな…結構掛かるだろ?申請出してどんなに早くても7〜8か月じゃなかったか? 国に寄っちゃ1年以上掛かるらしいし、それだとシーズンに間に合わないだろ?』 『…あっ、そう言えばヴィクトル、昔血液提供したって言ってたわ。探せばまだ残ってるかも…』 『その事なんだけど。リアーナ、今抑制剤持ってる?』 暫く聞き手に回って押し黙っていた入矢が声を出す。何時になく真剣な面持ちなので一瞬此方が気圧される。 『えっ…うん、持ってるけど。』 『新しいシートがあればそのまま見せて。』 ユリアナは肩から下げていたバッグの中から薬の処方袋を取り出した。 飛ぶ際は万が一の事を踏まえて数日分忍ばせているのでシートになっているのもあった筈。 『…ごめんなさい、上半分はもう切り離してしまってるのだけど。残りの抑制剤はスーツケースの中だから…』 『あぁ、下側が残ってるなら大丈夫だよ。貸してくれる?』 そういって抑制剤のシートを受け取った入矢は、銀のフィルムの貼られた側を確認する。 其処には製薬メーカーのロゴと抑制剤を示すロゴマークくらいしか印字されていなかったような気がするけれど。 程なくして入矢が薄く微笑んだ、何か分かったのだろうか。 『成程ね…そういう事か。』 『入矢、何が分かるんだよそれで。』 『αフェロモンのデータベース管理の関係上、この抑制剤は世界でまだ5か所でしか製造されてないんだけど。 そのお陰で仕様がほぼ統一されているんだ。 シートの右下の所には、その抑制剤の固有型番が印字されてるんだけどね。』 示された先には[041SPBVN]という文字が印字されていた。 この数字と記号が固有の型番である事は二人とも知らなかったようで驚きに目を見張っている。 というより印字が小さすぎてそこに型番が刻印されていた事自体を知らなかった感じかな。 『知らなかった…それで何か分かるの?』 『この記号は単なる登録順じゃないんだ、ちゃんと意味があってね。 何処の国のどの場所で採取されたサンプルなのかが分かるようになってるんだ。 最初の数字3桁は国際バース連合 次のローマ字2文字若しくは3文字が都市名、最後の2文字が固有名…登録しているαのイニシャルになってるんだ。 No.041の国はロシア連邦、都市はサンクトペテルブルク、そしてイニシャルがV.N。』 『…ヴィクトル・ニキフォロフ?』 『そう、この抑制剤はヴィーチャの血液から作ったものだ。 幾ら相性のいい抑制剤だったとしても、合致率は高くても80%を超えるくらいだからね。 殆どの場合は70%前後になるから、どうしても発情期を完全に無くすことは出来ない。 それでもちょっと気分が悪かったり、身体が重かったり…残る負担も日常生活を送れる程度のものだから従来に 比べれば格段に良いのは確かだけど。 でもリアーナは発情期を殆ど感じないって言ってたし、“一世代”をずっと使ってるって聞いたからもしかしてと 思って。』 運命の番だったのであればある種納得もいく。 通常であれば運命だからといって合致率が一番高いとは言えないだろうが――何故なら運命を決めるのは魂だからだ――勇利の転生がヴィクトルとの運命の繋がりを引きずった形でユリアナへと引き継がれていた事から、生まれた時から身体が半身を求めていたのかもしれない。 他の抑制剤でそこまで強く拒絶反応が出たという事を考えても、恐らくはそういう事なのだろう。 まさかこんな所から既に彼の恩恵を受けていたとは思わず、少女は入矢から受け取った抑制剤のシートを握りしめて感涙の波に浸る。 『…この薬には、本当に助けられたの。初めての発情 発情 この薬に出会えてから身体が変わったの。発情期の時でもなっている事を忘れちゃうくらい平気になったし、 飲み始めてから凄く安定するようになったから成績も上がったし。』 『そりゃそうだ、君は生まれた時からヴィーチャの運命だったんだから。 番を得たΩみたいに精神的にも肉体的にも安定したんだよ。』 成程、彼女が世界を制する実力を持つことが出来たのは此処にも要因があったのか。 Ωは早いうちに番を得る事で本来の力を発揮出来るという事が改めて真実である事を示しているじゃないか。 入矢は内心で一人相槌を打つ。 『ちょっと待て入矢…何でそんな事をお前が知ってるんだ。 抑制剤に使われてるαの情報って極秘事項だろ? お互いのプライバシー保護の為に、提供者のαにも使用者のΩにも知らされない事…』 『この“中和型”抑制剤を開発した人っていうのが、ドイツの製薬会社で開発に当たってるエーゲルって 人なんだけど。元々αのフェロモン型を調べていた人で、Sランクのαと普通のαの違いを調べようとする 過程で、血液からフェロモンを抽出する方法を確立させたんだよね。』 『エーゲル博士は知ってるけど…そんな研究をしてただなんて初耳だわ、何でΩの抑制剤を作る事になったの?』 『フランスにトゥルニエっていう博士が居るんだけど、この人は発情 フェロモンが相殺出来る事を発見したんだ。αとΩのフェロモンにはそれぞれ固有で受容体の形状が異なっている 事と、一部のフェロモン同士で型の一致が見られる事を理論的に導き出した。 番関係のないフリーのαとΩの間で通常数日続く筈の発情 らしいんだけど…』 『待て待て、話が見えねえ。何の話だ?』 『だからね。この二人の異なった研究を合わせて作ったのが、今の中和型抑制剤の発端なんだよ。』 特定の組み合わせのαとΩのフェロモンが合致する。するとΩの発情 αのフェロモンを血液から抽出する方法が別にあって、もしそれを成分として組み込むことが出来れば新しい抑制剤が出来るのではないか? そこから今の中和型抑制剤が出来上がったというのだ。 『…何でイーリャはそんな事を知ってるの?そんなのΩの私達にも教えられた事ないわ。』 『俺も初耳だぞ…なのにαのお前が何で…』 『だって、この二人を引き合わせたのは僕だからね。』 『『……はっ?(えっ?)』』 『僕がそれぞれと面識があって、二人の研究内容を聞いた時にもしかしてそういうのって作れないのかな? って声を掛けたら…いつの間にか本当に新しい抑制剤が出来てたんだよね。』 『ちょっと待て!そもそも何でお前が製薬会社とか研究者と面識があるんだよ。』 『まぁ僕って5年前のグランプリファイナルで素性を明かして、世界的にバースの象徴みたいな扱いをあれから 受けててね。エーゲル博士からは個人的に僕のフェロモンを調べたいっていう主旨でコンタクト要請が あったんだ。トゥルニエ博士とはバース連合のモンターニャ総長を通じて知り合って、彼の研究の話を聞いた 時にこう、閃いてさ。』 『イリヤ、モンターニャ総長と面識があるの?!』 『彼とは5年前から親交のある友人だよ?あー友人って言い方変かな、彼ヴィーチャより年上だし。』 その言葉にユリアナは絶句する。自身も2年前に優秀なΩだと評価を受けて一度彼に呼び出された事がある。 まだ国際大会で活躍できるΩは少なくて、ジュニア初参戦で挑んだシーズンでファイナリストにはなれなかったけれど中国大会で銀メダルを取った事で名が知れて一度会談を持った事がある。 君のこれからに期待してるだとか意中のαがいるかだとか色々聞かれたけれども、あの時は余り上手く受け答え出来なかった。 …あれ、確か国際バース連合 もしかしてこの間入矢が会っていた“ある人”って… 『…それでだったのか、中和型抑制剤の広告塔にお前が起用されたのは。 あの宣言でお前が単に有名になっちまったからって思ってたけどよ。』 『ある意味で僕が作ったようなものだしね。 モンターニャ総長にも君が広告塔としては一番適任だって言われたし。』 本当はヴィーチャにやって貰うのが、世界に対して一番効力があるだろうなって思ってたんだけど。 彼はそれを拒んだ、未来の明るい新しい薬のイメージとして過去の自分は似つかわしくない。 ヴィクトル・ニキフォロフは運命を失った悲しい男だから、Ωを救う新薬に暗いイメージは持たせたくないと言った。 仕方なく僕が矢面に立ったんだけど、代わりにヴィーチャにもきちんと参加して貰う為に最初の被験者に加わって貰ったのだ。 世界中の名だたるαがこの抑制剤の製造に賛同する、という構図がとても大事だったからね。 まさかそれがリアーナの選手生命を支えて、世界の頂点を取れる選手になる手助けをしていたとは…運命の歯車は何処で噛み合っているか分からないものだ。 まぁそれだけじゃなく、この新型抑制剤を広める為のαの賛同者集め自体にも僕は一役買っていたりするのだけど。 そんな僕の話を聞いてΩの二人は驚きを隠せないようだった。 『割と多いんだよね、僕に接触してくる人って。それこそ研究者から企業の重役クラスまで。 ただその中にはロシアからの刺客も紛れてたりするから、今は日本のスケ連とモンターニャ総長を入口にして もらって相手を見極めてから会う事にしてるけどね。』 『仮にも国際組織の総長をダシにしてるって、お前一体…』 『彼は良き理解者でもあるからね、僕に鷹斗がいる事も知ってるからその類の話も上手く宥めてくれてるし。 代わりに色んなバース研究者を連合の開発研究推進部に紹介したりもしてきたし、持ちつ持たれつの関係だよ。』 国際バース連合 バースに縛られない、皆が平等に暮らせる世界を齎す事がこの組織の根幹たる目標だ。 その為には一番枷の大きいΩへの環境改善が最優先とされている。 何れ全てのΩが発情期を気にせずに生活できるようになれば、きっと今度はαの優位性に向けてのメスが入れられるだろう。 なんて展望をしているけれど実際はもっと先の未来になるだろうけどね。 そうか、もしかしたらヴィーチャがロシアに寄らなきゃいけないって言ってたのは血液採取の要請があったからかなとか思いつつ。 それは後で本人に確認すればいいだろう、きっと驚くだろうし大いに喜ぶに違いない。 『兎に角、抑制剤に関しては今のままでも大丈夫だよ。 まぁ、“一世代”の副作用を気にするんだったら、“番専用抑制剤”に切り替えるのも手かもね。 まだリアーナは16歳だから、少しは効果があるかもしれないし。』 『…“番専用抑制剤”?』 『何だよそれ、聞いた事ねぇけど。それも開発中の新薬か?』 『臨床実験も終盤だから今年度中に正式に稼働すると思うんだ。 精製方法が“中和型”と全然違うから、副作用の発育阻害に関しては解決できると思うよ。』 『そうなんだ…でもまだスケート連盟での認可は降りてないでしょ?』 『それも何れ近いうちに承認されると思うよ。取り敢えず今期は今までの抑制剤を使えばいいと思うけど…』 『大丈夫なのかよ…また“中和型”みたいに変な副作用とか出るんじゃないのか?』 『…鷹斗。薬変えてからの体調はどう?』 『えっ、何だよ急に…』 『丁度薬変えてから3年くらいでしょ?僕殆ど帰ってこれなかったけど、その間どうだった?』 急に何の話だと思って鷹斗は眉をしかめる。 番になって最初の2年くらいは、試合に被ってしまった時を除いて入矢は発情期の度に俺の所に足を運んでくれていた。 “抑圧型”がΩの機能を押さえつけるもので、発情期を強く抑え込もうと強力なものを接種し続ければ身体に大きな損傷ダメージを齎す事を入矢は当然知っていたからだ。 ――勇利さんが身体を弱くしたのはこの強い“抑圧型”抑制剤を長く服用し続けたせいだからな。―― 高校を卒業して、俺は九州を出て大学は東京を選んだ。 卒業後の進路の為に経済学や経営学、システム構築なども知識として入れておきたかったから選択授業でも色々取れるように自由度の高い大学に行く為に。 入矢も少しの帰省で日本に戻る時はスポンサー絡みの仕事で東京が多かったから、結果的にお互いに都合が良かったからだ。 だが遠征先で度々不可解な事故やトラブルに巻き込まれる事が増え、ある時それが全部ロシアからの刺客によるものだという事を告げられた。 父親であるヴィクトルさんの世界選手権5連覇という記録を何とか超えさせないように、初めは怪我の一つでもしてくれればという目的だった筈だが… 次第にエスカレートし、そのうち死んでしまっても構わないと言わんばかりに派手な襲い方をし始めていた。 元々俺との番関係の事は俺に降りかかる危険を避ける為に世間には伏せる事にしていたが、手の出しやすいあの国の近隣諸国だけでなく日本に居る時にも不可思議な事件が入矢の傍で次々と起こった。 一度だけだが俺も一緒にそれらしき現場に居合わせた事があった、勿論その当時はただの事故だと思ってたんだけどな。 それら全てが奴らの差し金なのかは結局分からなかったが、魔の手が日本国内でも伸びてくるのではないかという懸念が生まれるには十分だった。 遂には入矢から俺と暫く距離を置いた方が良いという打診がされてきた。 番と共に居られないΩに掛かる負荷に関しては十二分に理解をしているだろうあの入矢が、そんな事を言い出したんだ。 余程深刻な状況なんだと察した。 だから俺だって考えた、それくらいに奴らからの脅威に目を逸らす事が出来なくなっていたんだと。 だがやっぱり番が傍にいない期間が長引くことに関しては、Ωの自覚が乏しい俺ですら恐怖を覚える。 その時に入矢から自分のαフェロモンを使用した抑制剤が漸く完成したから、そっちに切り替えてみないかと言われた。 発情 そもそもヴィクトルさんの5連覇を突破してしまえば、奴らが手を出してくる理由がなくなるからそれまでの辛抱だと入矢と話していたからな。 『…元々俺最初の薬の服用期間が半年くらいだったから比較しにくいけど、でも覚えてる感覚だけでも全然 違ったぜ。発情期が起こりそうな時期だけ飲むって大丈夫なのかって思ったけど、全然発情 来ないし…俺βに戻ったんじゃないかなってたまに錯覚しちまった事もあったしな。』 『待って、“抑圧型”も“中和型”も1日2回の服用を毎日が基本だよ? 発情期だけ飲む抑制剤なんて聞いたことないわ。』 『はっ?そうなのか?新型だっていうからてっきりそんなもんかと…』 『そう、βに戻ったって思っちゃうくらいによく効いてたんだ。』 入矢が予想通りだと言わんばかりに何かを企んでいるように微笑んでいた。 待て、さっき此奴何て言ったっけ? 『おい、まさか…』 『そうだよ。今鷹斗が飲んでるのは“番専用抑制剤”だよ。』 物凄い笑顔でミラー越しに俺を見つめている入矢が其処にいた。 待て待て待て、さっき臨床実験中って言ってたよなその薬。 つまり俺は知らないうちに被験者の内の一人にされ、今の今迄その事を知らされずにいたって事か?! 『ふっ…ざけんな!!知らない間に未認可の薬使う事に何承諾してんだよ入矢!!』 『安全性に関しては中和型よりも保障されてるよ、僕も含有成分に関してはちゃんと目を通したし。』 『だからと言って、飲んでる本人に何も知らせずに服用させるって、普通おかしいだろ?』 『それが条件の一つでもあったんだよ。純粋に抑制剤がきちんと“目的通り作用しているのか”を調べる為にね。 先入観を持たせずに、きちんとΩフェロモンが相殺されているか。 その結果発情期がまるでなかったくらいに治まるかどうか。 Ωのフェロモン数値って精神的負荷で変動も大きいものだから、知ってしまうと効果が被験者によってバラ付きが 出る事も考えられる。 臨床実験中の薬だって事が知られれば猶更ね。 だから殆どのΩの被験者は薬が変えられた事すら知らずに居るんだよ。』 『マジかよ…』 『まぁ、知らせない理由は製造方法を知っちゃうと大方のΩは動揺するだろうって所が大きいんだけどね。』 『製造方法?そういえばさっきも他の抑制剤と違うって言ってたけど、何が違うの?』 発情期を抑える効果があるのだから当然αのフェロモンを使用している、とは思うのだが。 何せ“番専用”なのだ、番を持ったΩは相手のαの受容体に100%合致するように変質している。 つまり番のαのフェロモンを元に抑制剤を作る方が効率的なのは明白だ。 製造方法が異なるという事は、血液以外のものからの採取なのだろうか。 ユリアナが首を傾げているとミラー越しに明らかに動揺している鷹斗の目が見えた。 『……おい、まさか…』 『鷹斗は賢いから察しが良いねぇ。多分そのまさかだと思うよ?』 『おまっ!それはっ…い、色々問題だろうが!特に倫理面で!!』 『だから“番専用”にしたんじゃないか。不特定多数相手じゃないんだから、当人同士の合意だけで問題ないし。』 『…何?どういう事??』 『この抑制剤はね、αの精液から作ってるんだ。』 『…えっ!』 『血液よりもずっとフェロモン濃度が濃いからね、1錠当たりのフェロモン含有量も数倍に増やせる。 “中和型”は毎日服用し続けてαのフェロモンを一定量体内で保つことによって効果を得られる仕組みだけど、 “番専用”の場合は発情期にせり上がってくるΩのフェロモンを瞬時に中和させる仕組みなんだ。 言わば即効性を特徴としている、濃度が高いからこそ出来る方法だけどね。』 だから発情期の間だけ、朝昼晩の3回の服用だけで抑えることが出来る。 発情期の期間はΩによって異なるが、最長の一週間を持つΩの場合でも毎日2錠ずつよりは数を抑える事が出来る。 つまり必要な抑制剤の量も減らすことが出来るという事だ。 『鷹斗の場合は僕のフェロモンが強い分朝晩の2回で十分効果があるらしいね。 元々発情期は3日間だけだし薬飲む量も随分減って楽だったでしょ?肉体的負担もほぼゼロだし。』 『逆に精神的ダメージがデカいっつーの…知らないうちに精液混ぜて飲まされてた俺の身になれよ…』 『あははっ、ちゃんとフェロモン成分だけ分離させて使ってるから大丈夫だって。』 『そういう問題じゃねぇよ!!大体何でそんな大事なこと全部黙ってたんだ!!』 『こら鷹斗危ないよ、運転中なんだから。ちゃんと前見て。』 後部座席ではユリアナが赤面して口許を押さえていた。 いやいや、確かに前世では男だったけれども、勇利とてこの手の話には耐性のない性格だったから結局知らされた事実に戸惑うしかないだろう。 これ以上動揺しても埒らちが明かない、少女は頭かぶりを振って何とか気を落ち着かせる。 『えっと…待ってイーリャ。取り敢えず、その“番専用”抑制剤の精製方法とか能力とか… 認可が下りる時期までやけに詳しいけど、まさかこの抑制剤の開発にも関わっていたりするんじゃ…』 『リアーナも察しが良くなったねーそのまさかだよ。』 『…っ!!?』 『実はこの薬、日本で開発研究してるんだよね。それも今は政府直轄の研究所でね。』 キッカケはαとの性交渉で避妊をしなかった場合に、Ωの発情期が半日ほどで収束してしまう事象から。 精液に発情期を終わらせる何かがあるのではないかという研究から始まったらしい。 後にトゥルニエ博士の研究からαのフェロモンがΩの発情期を抑える事が判明し、精液がとびきりαフェロモンを含んでいる事から血液よりももっと効率的に作用させる抑制剤を造れるのではないか。 という事になって開発研究が始まった。 『山畑教授が最初開発と研究に当たっていたんだけど、血液以上に精液ってどうしても倫理的に薬の成分として使用 するには問題があるんじゃないかって言われちゃって、一時期は研究中断しそうになってたんだよね。 その話聞いて鷹斗とのセックス思い出してさ。番専用って形ならその辺りはクリア出来るんじゃないですか?って 助言したら、本当にその方向で進み始めて。 今現在中和型のデメリットである“番持ち”に焦点を当てれば、十分参入できる余地があるっていう感じでね。 仕舞いには政府まで動き出してて、いつの間にか国を挙げて開発されちゃってたって訳。 にしても皆頭硬いよね、ちょっと見方を変えれば違うやり方があるのに。』 『いや、その前に研究者でも何でもないお前の一言で国まで動くっていう事態がそもそもおかしいんだよ。』 『まー僕って有名人だし?ことバースに関する事に於いては僕に声を掛ければ色々欲しい情報が手に入るって思われ てるからさ。 みーんな僕にまず声を掛けてくるんだよね。まさか人脈作りが此処まで役立つとは思ってなかったけど。』 成程…イリヤが己の情報操作で日本政府にまで圧を掛けられたのはこの新薬開発への関与があったからなのか。 私はあの時のタクシーでの彼との会話とヴィクトルの言葉を思い出していた。 ヴィクトルが[引き金を引いたのはイリューシャだ]って言ってたけど、引き金どころの話じゃなかった。 イリヤは装填する弾丸だけじゃなく、銃そのものに至るまでその手中に収めていたよ。 彼は“中和型”抑制剤の誕生も、そしてこれから世に出てくるだろう“番専用”抑制剤の開発にも関わっていたのだから。 『あ、因みに僕たち“運命”代表でこの臨床実験に極秘扱いで参加してるからね。』 『…あぁもう、何聞いてももう驚くかよ。お前本当目的の為に手段選ばなすぎ。』 嘗て世界を変えたい、二度と母親のような悲しいΩを。 両親のような悲劇の番を生み出さない世界を創りたいと此奴は言った。 子供の戯言だと貶す声もきっとあったに違いないが、俺はその為に入矢が昼夜を問わずスケートの為に全力を注いでいた事を知ってる。 だから本気でその夢を語っているんだと分かっていたし、自分なら成し遂げられるという強い自信を抱いている姿をずっと見てきたから。 本当に全てを成し遂げようと、一つ一つ土台を築き上げているその様には感心した。 そりゃあ感動ものだろう、何せ相手は世界規模なんだから。 だが実際にそれらを実行してしまっている様を見せ付けられて、それも軽々と手玉に取っている姿を見てどう思うか。 (もしかして俺が最初に入矢を見た時にすっげームカついたのって、前世でも此奴に振り回されて腹立たしかった からなんじゃねぇのか…?) 最初の出会いはまだお互いに第二性が何か分からないような時分だから、俺も入矢も感動的な運命の邂逅みたいな衝撃は何処にもなかったけど。 今思えばあの時感じたあの気持ちがそのまま、そういう事だったんじゃないのかと。 そう思えて仕方がない、じゃなきゃ出会っただけで彼奴だけに妙に強い嫌悪感を抱いただなんておかしいだろうが。 それに今頃気付かされたというのは、今更過ぎて本当癪に障るけどな。 鷹斗はそう内心で愚痴りながらハンドルを握りしめていた。 太陽光を反射し白光りする四角い車両は進路を西へと変えて進んでいくのだった。 next
まず此処で一つ目のネタ晴らし、入矢の番って鷹斗だったんだよーっていう話(笑)
口調が分かりやすいので新キャラじゃねぇなら間違いなくコイツだなってのは分かるでしょうww そして知らぬところで色んな事をしていた入矢君、いつの間にか大きく世界に関わっていらっしゃった事が露呈。 まだまだ彼の実績は終わりません…ww |