神はその身に霹靂を受ける

トゥで氷を蹴って宙を舞い、身体を外側に逸らせながら左足で着氷する。
身体がとても軽い、昔はどんなに叱咤しても重くていう事を聞かなかったのに。
思うようにいかず結果を出せない事が歯がゆくて、焦がれて立ち続けた氷上なのに何時も息苦しかった。
それでもこの場所に帰ってきたくてたまらなくて、気が付けばスケートシューズを手にしていた。
まだ3回転だけれどこのまま飛び続ければ4回転だって飛べるような気がしてくる。
でもこの身体にはどうしてもパワーが足りない。
もっと高く飛びたいのに、何が足りないんだろう。
あれ、その前に昔って何時の事だっけ?
だって私…

まだ15歳の子供なのに。

ねぇ、貴方ならその答えを教えてくれる?
何度も見るその夢たちの中の一つに出てくる小さな男の子。
7歳の時に見た世界ジュニア選手権での表彰台の上、そこにいる貴方があの男の子なんでしょう?
私まだ夢の全部が見えないの。
貴方の向こうにいる、あの人の顔が見えない。
教えて…だってそこに、行かなきゃいけないんだもの。

その為に“僕”は、戻ってきたんだから。


あぁ…私の中から必死に手を伸ばしているのね。
追悔に苛まれた感情に埋め尽くされてしまいそう。
私なのか、僕なのか…時々分からなくなってしまうくらいに感情の波に溺れていく。


あの人を一人にしてしまった。

それだけが、唯一の後悔だった。



Ep.1



今年度の世界選手権が終わり、今夜もバンケットは開催される。
今回の大会で遂に僕はヴィーチャの記録である5連覇に並んだ。
さも当然と言わんばかりに周りを捻じ伏せた。
丁度今が身体的にも全盛期を迎えているから、僕にとってはなんて事はなかった。
来年にはクアドアクセルを取り入れてみようかな、などと漠然と来季のプログラムを考えている。
そう、僕にとっては漸く本来のスタート地点に辿り着いたようなものだ。
此処からが本当の勝負。
ヴィーチャの記録を抜いて、何処まで連勝記録を伸ばせるか。
その結果がこの世界を変えた証にもなるし、超えていくことで漸く父さんを祖国の呪縛から解放する事が出来るのだから。

大記録に並んだ僕の周りにはバンケットが始まってからずっと多くの人が訪れている。
同じ試合を戦った他の選手たちを始め、各国スケート連盟の重役。
女子シニアのメダリストたちが連れ立って現れた時は周りも騒然とした。
大方あわよくばお近付きになりたいって魂胆だろうけど、その辺は何時ものように軽々とかわす。
他にも沢山色んな人が会いに来たけど、流石に全部は覚えていられなかった。
幾ら人より記憶力が良くったって、興味もさして湧かない相手の事を覚えてたらキリがないからね。
バンケットでは食事や料理も楽しみながらだっていうのに、会場に入ってからはシャンパンを1杯煽っただけだ。
喉も乾くしお腹も空いてくるし散々だ、お願いだから拘束時間ってのを考えて欲しいよ。

『おやおや、皇帝様は漸くお食事タイムかい?』

人だかりが周りから去ったタイミングで、食べ損ねていたオードブルを手早く口に運んでいたその時だ。
聞き覚えのある声に振り向き、姿を確認する。

『先に聞いておきますけど、その皇帝様って僕の事ですか?クリスさん。』
『おや、名実ともに新しい皇帝になったんじゃなかったのかい?』
『クリス、正確には並んだだけだよ。超えるのは次の世界選手権でだ。』

視線の先に居たのは、世界選手権で銅メダルを獲得したフランス代表のラウル・ダヴィドと、そのコーチであるクリストフ・ジャコメッティだった。
クリストフコーチはヴィーチャと現役時代何度も表彰台を争った元スケーターで、彼とは選手の中でもひと際仲が良かったらしい。
その縁もあって試合で度々出くわすとこうして話しかけてくれる。
ラウルは僕より4つ年上のスケーターで今期で引退を囁かれているが、その滑りはまだまだ健在だと思う。
ただ一昨年の膝の故障からの復帰があり、漸く今年表彰台に戻ってこれたという感じだ。
人のふり見て我がふり直せ。
身体の故障は自分の身にも起こる事だ、何時も肝に銘じている。
表面上は友好的に喋っているけれど、僕が出るまでは金メダルも取っていた選手だ。
若手の優秀な選手に頂上を陣取られて歯がゆい思いをしている事だろう。
内心は快く思ってないだろうな。

『おや、そうだったかな?でもまぁ、来年も取る気満々なんだろ?』
『当然です。それが僕の掲げた目標の内の1つですから。』
『相変わらず生意気だなぁイリヤ。
 本当、1度で良いからお前を表彰台から引きずり落してやりたかったんだけどなぁ。』
『すみませんラウル、僕にも譲れないものはあるので。』
『まぁ…お前の望んでいた世界になりつつある訳だし、良いんじゃないのか?
 勝てなかったのは俺たち他のスケーターの実力が足りなかったからだしな。』

僕が本当に望んだ世界の事は彼も知ってくれている。
初めての世界大会の後、日本で放送されたトーク番組はスケーターの間でも話題になっていた。
彼もそれを見ていてくれた一人で、そう言えばあの後のグランプリシリーズで顔を合わせた時に賛同の意思を示してくれたんだっけ。
それと勝負の行方はまた別だと思うんだけどね。

『そういえばヴィクトルは?一緒じゃないのかい?』
『日本のスケート連盟から呼び出されててまだ此処には来てないと思いますよ。
 他にも振付をあげた選手の所にも顔を出してくるって言ってましたし。』
『なんだ、また一人なのかイリヤ。お前の所ってビックリするぐらい放任主義だな。』
『残念。久々に彼に会えると思ったのになぁ…俺この後レオナルド会長に呼び出されてるんだよねー』
『クリスさんが会いたがってたこと、ヴィーチャに伝えておきます。
 彼も多分会いたがってると思いますから。』
『そうしておいて。こっちに来るときは声掛けるように伝えといてね。』

ヴィクトルもクリスも40代に差し掛かる辺りまではアイスショーなどにも出ていたけれど、流石にその歳にもなってくると体力的にも厳しくなる。
お互いにコーチ業――正しヴィクトルの場合コーチをするのは入矢一人だけである――に専念し始めると、昔のように顔を合わせなくなってしまった。
特にヴィクトルは入矢が普段からコーチを帯同せず一人で試合に望むスタイルが未だに多いことから、彼は滅多に表には顔を出さない。
帯同で使われるべきその時間を、敢えて“別の時間”に費やしているからだ。
そちらの方は既に佳境に入っているので、今回の世界選手権は珍しく出席してきた。
すると途端に色んなところからの呼び出しだ。
相変わらずロシアからの呼びかけには二つ返事であまり取り合ってないようだけど。
それでも全く顔を出さないという訳にもいかないので、恐らくそっちにも出ている筈だ。
バンケットが終わるまでには顔を出すだろうけど、正直いつ戻ってくるのかは分からない。

『あぁ、そういえば今日は招待されてるんだってね、例の“舞い踊るカナリア”ちゃん。』
『そりゃ世界女王になったんだ。
 今回は体調も凄く良かったらしいし、前回出られなかった分あちこちに引っ張りだこだろうよ。』

そうか、今夜は彼女も来ているのか。
バンケットに来てから常に誰かに話しかけられていたので、出入りしている人間なんて全くチェック出来ていなかった。
ジュニアとは日程がズレているので本来ならばこの会場には居ない筈なのだが、先のグランプリファイナルのバンケットに来られなかった事もあり主だった連盟関係者と顔を合わせる為に呼ばれるのではないかという想定はあった。
彼女とお近付きになりたい面々の希望の声を連盟が組んだ形かもしれないけれど。

『そう言えば、何で“カナリア”なんだ?
 見た目とか雰囲気だったら、どちらかと言うと彼女はヒバリじゃないのか?』
『由来はジュニアデビューで着ていた衣装がカナリアの羽のような黄色と白のヒラヒラドレスだったから
 らしいよ。まぁ、他にも意味を掛けている人たちが居たけどね。』
『他の意味?何だよそれは。』
『……カナリア、特に綺麗な黄色い羽根のものは人間が愛玩用に品種改良した、所謂飼い鳥って奴でしょ?
 本当、いやらしい意味を掛けてくるよね。』
『おや、イリヤはご存知だったかな?』
『え、どういう事だよ?クリス。』
『ラウルはβだからその辺の気持ちは分からないかな?要するに…』

麗しきΩである彼女を、自分の鳥籠に閉じ込めてやりたいっていう無粋なαの欲目があるって事さ。
無駄に色気を振りまいた声音でクリストフが目を細めて言葉にする。
止めてくれよ妙に心臓に悪いんだけど、その声と表情。

『うっわっ、αって獣ケダモノばっかだな、恐っそろし!』
『そういう人間もいるってだけだよ。入矢はそんな事ないだろ?』
『当たり前でしょ…有らぬ誤解を生みそうな発言は止めて下さい。』
『で、その裏の意味は本人知ってる訳?』
『さぁ、どうだろうね?俺も彼女とはちゃんと話したことないからな…
 シニア選手しか教えた事ないからすれ違う事もないし。』
『にしても凄いよな…彼女本当にΩなの?
 そのスケート技術もそうだけど、周りにいるαも全然気付かないくらい匂いを感じないって噂だぜ?』
『Ωにも色々居るからねぇ、フェロモン量の凄い子も居れば全然出ない子もいる。
 発情期の長さだって1週間丸々で収まらない子もいれば、3日くらいで終わってしまう子もいるらしいし。
 一説にはΩの中にも身体的や芸術的な能力の高い者もいれば凡庸の者も居る、その差が何かしら影響を
 してるっていうのもあるらしいよ。』
『それって美人かブスかっていうのと大差ない気がするけどよ。』
『ははっ、まぁそういう事だね。発情期の短いΩは能力が高いっていう噂は聞くけどね。
 それもまだ研究段階だからハッキリした事は言えないらしい。』
『何だよ結局分かってねぇのかよ。』
『最近までは迫害される事の方が多かったからね…本来の生態に関してはまだまだ未知らしいよ。
 この数年で随分Ω救済への研究は進んだらしいから十分進歩だと言えるけどね。』

どっかの誰かさんの叫びが、お偉い方に届いたらしいよ?
顔を覗き込まれたのを察してスッと視線を逸らす。
いちいち言い聞かせるように言わないで欲しいんだけど、悪かったね鶴の一声上げちゃって。
こっちは二人というバリケードがある間にこの空腹を満たしておきたいんだけど、そっとしといてくれないかな?
横目で至極楽しそうに微笑んでいるクリスを見やりながら、そそくさと皿の上を平らげていく。
この場にヴィーチャが居たらしっかり咀嚼しろと怒られるだろうが、今食べておかないと夕食を食いっぱぐれる流れだ。
連日の試合でエネルギー不足なんだから食べないと死んじゃうよ。
見苦しくない程度に流し込むように口に運んでは飲み込んでいく。

『そう言えば、昨今では彼女を誰が射止めるかって話で盛り上がってるらしいね。』
『また出たよ無粋なαどもの戯言が。』
『イリヤの存在が結構大きいみたいだけどね?
 事実αもΩも番の間から生まれてくる率が凄く高いし、αとΩの間から生まれた子供は統計的に見ても優秀だって
 言われ始めてる。
 優秀なαが欲しければΩを、それも能力の高いΩを宛がうべしだという風潮は実際に生まれつつある。
 今その最たる存在がイリヤだよ。
 現在進行形でその能力の高さを世界に示し続けている。
 だから彼女が一体誰のものになるのかで、αたちが騒めく訳だ。』
『まぁαと互角、若しくはそれ以上で戦うΩともなると取り合いになっちまうのかもな。』
『………。』
『イリヤ、一応聞いておくけど、君が彼女の番候補の最有力だって噂されてる事は知ってるよね?』
『えっ?!そうなのかイリヤ!!?』
『…そういう声がある事くらいは知ってますよ。思いっきり当人たちの意志を無視した話ですけどね。』
『おやおや、彼女はお好みではないのかい?そりゃ美人というよりは可愛いって感じの子だけど、
 慎まやかな雰囲気オーラだし君にお似合いだと思うけどね。』
『僕は今そういう事にかまけてる場合じゃないんで、出来ればそっとしておいて下さい。』
『こいつ何贅沢な事言ってやがるんだ…彼女を欲しいと思ってる奴が幾らでもいるっていうのに。』
『ハハハッ、本当に君は食えない人間だなぁ…他人の評価や意見なんててんで気にしないんだから。』
『ていうか彼女6つも下なんですよ?恋愛対象にしろって言われても困るんですけど。』
『6歳差なんて微々たるもんだろ?何がいけねぇんだよ。』
『…日本人的感覚から言えば、大学生が中学生を捕まえるようなもんなんで十分抵抗ありますけど。』
『あれ、日本ってそんなに世間体が煩かったっけ?』
『十分お茶の間を騒がせるネタになりますよ、大体相手が成人するまで基本的にはアウトですね。』
『うっひょー純朴だなぁ日本人って奴は。』

俺の国だったら十代前半でも普通に婚約者を宛がわれるとか、お貴族様方なら普通にあるけどな!
なんてラウルは驚きとも呆れとも取れるような感嘆の声を上げる。
性に関しては欧州などではもっとハードルが低いのかもしれないが、日本では一般的ではない。
女性の結婚可能年齢は世界から見ても低いくらいなのに、実際その歳で婚姻する女性など日本人の中ではほんの僅かだろう。
寧ろ晩婚化が進んでいて20代の未婚率なんて惨憺たるものだ。
そんな話をしてやると二人とも驚いていた。
本当にお国柄とか価値観とやらは違って当たり前だといえど、外国って何処も本当に緩すぎるんじゃないかな?
その辺で二人が話を盛り上げている間に、僕はさっさとまた食事を口に運んでいく。

…あれ、さっきより周りが静かになった?
ていうか人だかりが随分遠くなったように思えるのは気のせいだろうか。
まぁ周りの目を気にせず食事できるのは良い事なんだけど…何かおかしくないか?
そう思ってたら隣でしゃべり続けていた二人の会話がスッと止んだ。
何事だと思って振り返ってみると、彼らの視線は更にその向こうに注がれていた。

『……おっと、噂をすれば。じゃあなイリヤ、ゆっくり食えよ。』
『まぁ、食べられればの話、だけどね。』

二人して何意味深な言い回しをしてくるんだ?
なんて呑気に見送りながら2杯目のシャンパンを煽った。
グラスを銀色のトレイに置き、皿に新しくオードブルを盛りつけようとしたその時だ。

嫌なものではないけれど自分に向けられる視線を感じてふと顔を上げる。
視線の糸を辿ると、そこには見覚えのある姿があった。
あくまで他人の見分を聞いた範囲だから、僕自身は彼女の事を実は何も知らないに等しい。
だが彼女はこのバンケットで僕の次に有名人だ。
だから終わるまでに何らかの方法で接触してくる、若しくはさせられるとは思っていたけれど。

(さっきのラウルの言葉は…彼女がこっちに向かって来ていたのを見たからか。)

そこに彼女の意志がどれだけ反映されているのかは分からないけれど、周りに他の人間が居ない時点である種仕組まれている事は疑いない。


彼女の名前はユリアナ・ネヴァライネン。
先ほど二人が噂していた“舞い踊るカナリア”とは彼女を指す異名だ。
フィンランド代表の選手で3年前にジュニアに進出、今年度で初めてグランプリシリーズファイナリストに躍り出た。
来年度からはシニアに挙がってくるだろうと噂されている今年の世界ジュニア女王だ。
その第二性はΩ。
そう、僕の母である勝生勇利に続いて史上二人目のグランプリファイナリストになった稀有な存在。
一般的にΩというのは劣等種と言われているし、女性なら尚の事力も能力も弱い。
人類に於いて最弱と言われる立場であるにも関わらず、彼女は己の実力で頂点に立った。
僕にとっては彼女の活躍は喜ばしい事だった。
今までであれば母のように、何かしら理由を付けられて追いやられていたのがΩだった。
彼女が此処まで辿り着いたのは勿論実力あっての事だが、悪しき風習を払拭出来たからこそ手にした栄冠だ。
僕が成し遂げたかった世界に、着実に近付いてきている事を実感する。
彼女のように世界の舞台にのし上がってくるΩは早々いないかもしれないが、世界中のΩの希望になった事だろう。
まるで自分の事のように手を叩いて喜んだものだ。
彼女の事はデビューの頃から密かに目に掛けていたから猶更だ。
ジュニアとシニアではそもそも組まれる日程が別々だから出会う事はなく、今年のグランプリファイナルでは彼女が発情期と重なっていたのか成績は芳しくなかった。
その為バンケットでは結局彼女は姿を現さず、今の今まで直接邂逅することもなかったのだ。

だが、それとこれとは話は別だ。
彼女との逢瀬に、それこそ政府絡みの事情が絡んでいるとしたら由々しき事態だ。
馬鹿でも察するだろう?
世界選手権5連覇を成し遂げた優秀なαと、同じく世界選手権で頂点を射止めた麗しきΩ。
関係者だけとはいえ多くの人間が犇めくバンケット内で二人っきりで引き合わせられて、裏で何もない訳がない。
――事実先ほどクリスから言われたように、そういう話が僕らの知らないところで広がっているからね――
大方この世界で最上級の組み合わせになるだろう優秀な血が交わる事を期待されているのかもしれないが…それは非常に困る。

(公表してないだけで、僕番持ちなんだよね…引き合わされても困るんだけど。)

一番厄介なのは、後押しされたとしても彼女自身がもしその気になってしまっていたらという事。
一体どうやって断りを入れたら良いんだろう。
僕の身辺は連覇を阻止しようと日々刺客という名の追い打ちが、事ある毎にけしかけてくる。
殺傷沙汰になった事もあるし、規模が大きすぎて周りに被害を被ってしまった事故もあった。
試合の合間に発情期只中のΩをけしかけられた事もある。
番のフェロモン以外に身体が反応することはないけれど、それでも濃厚な香りを充てられたら気分が悪くなる。
両親同様、僕らは運命で繋がった番だから他のΩにそれを引き離される事は決してないけれども、逆に言えばそのせいで他のΩのフェロモンは全て異質に感じてしまう。
――まさか親子二代に渡って運命に出会えるなんて、どんな強運を引き寄せてるんだろうねニキフォロフの血って!――
身体が本能で拒絶反応を起こすんだ、己の番以外の者を決して受け入れない。
シニアに上がって間もないうちに運命に出会えたからこそΩの襲来に崩れる事はなかったけれど、不快なものは不快なんだから勘弁してほしい。
そうやって身に降りかかる危険が当初の予想通り絶えそうにないので、僕は番持ちである事をひた隠しにしている。
僕に番が居るとバレてしまうと、奴らは僕の半身に矛先を向けるに違いない。
僕のせいで命を狙われるだなんて冗談じゃない、彼をそんな危険な目に合わせる訳にはいかない。
しかし四六時中ボディーガードを付ける訳にもいかない。
日本ではそうやって囲う方が返って目立ってしまうから、番であることを黙っているのが一番安全だと判断した。
勿論日本政府と日本のスケート連盟は承知の事だ。
僕が公表するまでは黙っていて貰うように話は付けているし、そういった類の話は持ち込まないようにお願いもしている。
だが他国からの直接的な干渉であれば、此方が構えていても避けられるものではないだろう。
あぁ、本当にどうしようか…

内心そんな焦りを巡らせながらも、此方の姿を見とめた彼女はゆっくりと近付いてきた。
取り敢えず平常心だ、此処はバンケット。
選手同士の交流は必須だ。
動揺を隠すように優しく微笑みかけた。

『やぁユリアナ。きちんと君と話すのは今日が初めてかな?世界女王、おめでとう。素晴らしい演技だったよ。』
『ありがとう、イリヤ・カツキ。でも貴方には及ばないよ…5連覇達成、本当におめでとう。』

優しい笑顔で彼女は手を差し出してきた。
敬意を表して握手を交わすと、その距離は近付いた。
初めて実際に彼女を目の当たりにしたけれど、不思議と香る匂いは不快ではない。
というよりも殆どフェロモンらしき香りを感じなかった、これは付けている香水の匂いだろう。
公表されなければΩだなんて分からないくらいに彼女は普通だった。

ユリアナは身長155pの小柄な少女だ。
16歳でその身長であればもうそれ以上の高さは望めないだろう、欧州では珍しいくらいに小さい。
――そういえばこの小柄さがカナリアと言われた一つの要素かもしれないね――
顔立ちも特別美人かと言われればそうではないが、余計な装飾など要らない無垢な様相をしている。
目が大きい分年齢よりも幾分か若く見えるし、頬もぷっくりしていて紅をさしていなくてもほんのりと赤く色付いている。
小柄だが手足はスッと長く、ヒールマンスピンをしている時の彼女は本当に所作も造形も美しかった。
髪と瞳は蜂蜜を思わせるような琥珀色。
欧州独特の輝かしい金髪のそれではないが、落ち着いた輝きは何処かアンティーク装飾を思い出させる優しい色だ。
サイドで纏められた髪は華やかに結われていて、コサージュなど付けなくてもそれだけで一輪の英華がそこに咲いている。
可愛い子だと思う。
僕が今まで見てきた女性のΩの中ではとても慎まやかで媚びる様子などないし、寧ろ純粋過ぎるくらいだ。
――勿論日常生活では殆どΩに出会う事がないから、必然的に比較対象は刺客としてけしかけられたΩになっちゃうんだけどね――
彼女が何を言われて僕の所に送られてきたかは分からないけど、もしその気だったとしたらどうやって断りを入れようか…

『女子シングル選手でもトリプルジャンプを全て使いこなしている選手は非常に少ない。
 貴方のFSは本当に凄かったよ。
 コンビネーションジャンプの多くを演技後半に持ってくるだけでも大したもんだし、何よりスピンとステップが
 素晴らしかった。』

『もしかして、見ててくれたの…?丁度現地入りしていた頃だし貴方も練習日だったはずじゃ…』
『君の演技は見ておきたかったんだ。
 グランプリファイナルの時より調子が良さそうだったから、きっと最高の滑りが見られるだろうと思ってね。』

彼女のスケーティングに興味があったのは本当の事だ。
繊細なコンパンソリーを描く滑りに、軸の綺麗なジャンプ、それも手を挙げて回る余裕を見せるものだ。
小柄な少女の何処からパワーが出てくるんだろうと常々感心していた。
グランプリファイナルでは芳しくなかったが、先のフランス大会とロシア大会での彼女の演技は圧巻だった。
純粋に一人のスケーターとしてその滑りを目に焼き付けたいと思ったから、密かに彼女の滑りを見ていたのだ。
まさかジュニアである自分の今期を追ってくれているとは思ってなかったのだろう。
彼女は一瞬目を見開き、そして綻ぶような笑顔で頬を染めた。

『まさか、私の演技を見ててくれただなんて…ありがとう、ございます。あの……私の滑り…』
『…ん?君の滑りが、どうかしたの?』
『………いえ、あの…』
『…とても綺麗だったよ。水面を撫でるように、全身で謳歌する“舞い踊るカナリヤ”の異名が良く分かった。』
『……まさか、貴方にそんな風に言って貰えるとは思ってなかったです。』

あ…何かこの展開ってもしかして不味い?
僕の方が先に気があるような話しかけしてしまった気がする。
それは駄目だってさっき自分に釘を挿したばっかりじゃないか…あぁやってしまった。
でも嘘は付けないじゃんか…
彼女の滑りには何処かしら僕自身にも通じるような、音感というか信念と言うか…
そう、プレイスタイルが似ているんだ。
寧ろスケーティングで魅せる事に関しては僕よりもずっと優れていると思ってるくらいだし。

『……ふふ、見て貰えてたなんて、思わなかったから驚いちゃった。
 何だろう、凄くくすぐったい感じ。』

微笑みながらもじっと此方を見上げてきた。
しかしその笑みも何か良からぬことを企んでいる子供のようだ、ただの照れ笑いではない。
思ってた彼女の像と違う反応に目を見開いてしまう。
あれ、さっきの頬を染めた時は純朴そうな少女に見えたのに、何かちょっと印象が違くないか?
しかもその目線を先ほどからずっと離さない。
目を覗き込んでみれば、何処か焦点の合わないような視線だ。
僕じゃない何か、僕の背後にいる誰かを見ているような…
一体何を見ているんだ?その視線の先に見据えているものは何だ?
妙な沈黙が続いて居たたまれなくなる。

『えっと…ユリアナ?』
『あっ……ご、ごめんなさい。ふと、思い出しちゃって…』
『思い出す…?何をだい?もしかして、僕が君の大切な誰かに似ていたりしたのかな?』
『…っ!!いや…あの、その……似てるっていうか、何ていうか……』
『……っ?』

歯切れの悪い物言いに更に首を傾げる。
正直僕が誰かに似ているかと言われると難しいものがある。
顔立ちや骨格はヴィーチャに似ているけれど、目が完全に母さんとそっくりだから外人にしては何処か野暮ったい。
髪だってユリアナのようにくすんだ風合いがあれど、父さんみたいな綺麗なプラチナブロンドだって言えるような色じゃない。
完全に合いの子って感じで日本人ともロシア人とも言えないんだ。
…一体彼女は誰を見ている?
暫く待っていたら、思わぬ言葉が返ってきた。

『………大きくなったね、イリューシャ。』

言葉を失った。今彼女は何と言った?
何故年下の彼女が、僕を懐かしむんだ?
彼女は僕より6つも下で、小さい頃の僕を知っている訳がないのに…

『あっ、ごめんなさい。こんな事言っても、訳が分からないよね…はははっ……』
『……ユリアナ、さっきのはどういう事だい?』
『ごめんね!初対面の相手にいきなり愛称で呼ばれるのって、冒涜もいいとこだもんね。本当にごめ…』
『僕が聞いてるのはそういう事じゃない。何故、君が僕の愛称を知ってるの?』

その名前で呼ぶのは家族だけだ。
それも僕の父親であるヴィクトル・ニキフォロフと、今はもういない母の勝生勇利だけ。
僕はもうとっくの昔にロシアを離れて日本人として生きているから、誰もその名前で呼ばない。
何だ…この不可解な感覚は。

『……言っても、信じられないかもしれないけど。記憶があるの、私のものじゃない記憶が。』

始めは夢だと思ってたんだけど、何度も何度も繰り返し見るからこれは記憶だと思ったの。
最初に見えたのは緑豊かで、風情のある木造の建物。
湯気が立ち込める岩場があって、美味しそうな匂いに包まれていて。
海風を感じる石段を上った先には白いお城があって。
この記憶の持ち主の大切な場所だったんだなって思った。

目を見張った、彼女が見たという光景が何処の事なのか直ぐに分かった。
でもそれは僕が“勝生勇利”の息子だって世間に公表した時から、誰でも手に入れることが出来るようになった情報の一部に過ぎない。
その情報では記憶とは呼べない、調べればそれくらいの事なんて分かるからだ。

『ユリアナ…他に君は何を憶えている?…何を知ってる?』
『……白い部屋。』
『部屋…?』
『そう、真っ白な壁紙で、右側から朝日が差し込んでいて…』

青い寝具の上に私は横になってて、扉は締まっているけれどその向こうには広いリビングがあるわ。
ベッドサイドには緑色の笠のベッドランプがベージュのチェストの上にあって…
そう、そこに花が飾ってある。白色とオレンジ色の…

『あれは、ガーベラね。私の為にあの人が毎日1輪ずつ、買ってきては飾ってくれる花…綺麗だったなぁ。
 そして傍に駆け寄ってくる小さな蒼い目の子供…』

あれは貴方でしょ?
鈴を転がしたようなキラキラと軽やかな声が、まるで遠くから囁かれているように聞こえた。

ガーベラの花言葉は《希望、常に前進》。
ヴィーチャが1日でも健やかに彼が生きられるようにと、祈りを込めて毎日買い足していた花だ。
更に白には希望以外にも《律儀》、オレンジには《我慢強さ》という意味があり、正しく君のようだねと何時も言っていた。

家族以外誰も踏み入れる事のなかった、彼が最期を過ごしたロシアの寝室の風景。
僕たちしか知らない事を、彼女は知っている。
いやでもまさか…そんな事が……これは何の冗談だ?

『私も記憶が断片的で……でも、貴方に聞かないとこれが私の記憶なのか妄想なのか、分からなくて…』

あぁ、だから君は答え合わせをしたくって僕に会いに来たって事か。
頭の中で必死に逆算を試みる、そう言えば彼女の誕生日って何時だっけ。
……全く、これは大変なことになったぞ。
一瞬で頭の中を様々な事が駆け巡り、最善策を必死に探し当てる。
まさかこんな事になるとは、一体誰が想像し得ただろう。
僕の驚きを酷く申し訳なさそうに見つめ返してくる少女と対峙して、更に複雑な気持ちを抱いていた。



next


この部分が「神は何処へ向かうのか」のAge.22として掲載した部分を加筆修正したものになります。
漠然と決めていた設定を細かく決めて、今後の展開の時系列を再確認して…
ちまちまネタを織り込んだというか、そんな感じで構築です(笑)
個人的にはクリスさん出せたのは良かったなーこの作品本当にオリキャラばっかりになってるので(苦笑)