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Age.6
その日は冬だというのに透き通るような青空で。 1年の半分近くが冬のようなこの地では常に雲がどんより立ち込め、雪が舞う日も多くあるというのに珍しい冬晴れだった。 だから今日はよく見える、立ち上っていく白い煙が。 愛しい人が天に昇っていく、真白の軌跡が。 既に泣き果ててしまったのか涙はもう流れていなかった。 ただ泣き腫らした目は赤くなっていて、到底隠せるようなものではなかった。 一体どれほど涙を流していたのだろうか。 その小さい身体から全ての水分を出し尽くしてしまったのではないか、そんな不安に駆られるくらいに。 波は収まっていたようで嗚咽はなく、先ほどまで震えていた肩も今は平静を取り戻していた。 そうやって暫く空を見上げていた少年がふと視線を隣に向けた。 スラリとした長身の男は少年の父親だった。 見上げてもその顔色は伺えないが、頬を伝う涙は時折己の足元に落ちてきていてまだ彼の波は止まっていないのだと悟る。 そういえば母は随分と心配していた、自分が居なくなったら彼はどうなるのだろうかって。 白煙をじっと見つめながら、まるで呼吸を止めているかのよう。心此処にあらず。 じわりと襲ってきた恐怖に身をすくませ、少年は握っていた父親のズボンを強く引っ張った。 その衝撃に一瞬驚いた男は、虚を突かれた一瞬の動揺を抑えてゆっくりと眼下の息子へと視線を向ける。 『パーパ、いかないで…』 『イリューシャ…どうしたんだい、パーパは此処にいるだろ?』 『……でも、マーマのところにいきたいって、おもったでしょ?』 『…っ!!』 真っすぐな言葉だからこそ胸を抉る。 ほんの少しの渇望を息子に見られていたという事実に己に対して毒づく。 一番不安にさせてはいけない息子に、母親を失った子供に父親の喪失を感じさせてしまうだなんてなんて情けないんだ。 身体を屈めて最愛の存在を胸の内に抱きしめる。 『大丈夫だよ、パーパは何処にもいかないよ。』 『……ほんと?』 『あぁ、本当さ。約束する。だからイリューシャも約束しておくれ。何処にもいかない、一緒にいるって。』 『いかないよ?だってぼく、マーマとやくそくしたもん。』 だからパーパとずっといっしょだよ? 首筋に埋めるように顔を押し当ててたどたどしく言葉を紡ぐ息子の健気さに愛しい気持ちがこみ上げる。 今なら勇利が子供を欲しがった気持ちがよく分かる。 遅かれ早かれ、この日が来るだろう事は予想していた。 もしこの日をたった一人で迎えていたらどうなっていただろう。 自分をこの世に引き留めるものなんてもう何もない。 スケートも引退した。 今までは選手一辺倒だったので今更コーチ業に転身するつもりもなかったし、自分に務まるとも思わなかった。 唯一振付師としての活動には興味があったが、今の自分には新しいイメージなんて湧いて出てこないだろう。 幸せを失い、愛を失い。 置き去りにしてきた二つのLを漸く手に入れたと思ったら、いとも簡単に消え去ってしまった。 何も残されていないこの空虚な存在から一体何が生まれるというのか。 きっと然程間を置かずに逝ってしまった彼を追いかけていたに違いない。 それを引き留めているのは、彼が残していった置き形見だ。 本当に愛した相手との間に生まれた、最愛の形。 己の不甲斐なさで半身の命を守ることが出来なかった。 二度と繰り返してはいけない。 何があってもこの子だけは、自分の手で守り抜かなければいけない。 ヴィクトル・ニキフォロフはそう強く誓いを立てたのだった。 真新しいランドセルをしょった子供たちと、その手を引く大人たちが次々と門をくぐっていく。 けれど中に入って直ぐに別れなければいけない。 これから入学式が始まるので、子供はまず教室に向かい担任の先生との対面。 説明を受けて入学式に臨まなければいけない。 保護者はそのまま体育館の保護者席に誘導され、式が始まるまで待機することになっている。 つまり中に入ってしまえば、此処から先は助けを求める事が出来ない。 長谷津市立鏡谷小学校と書かれた表札の前で、不安げな顔で遠くに見える校舎を見つめてる甥っ子に少々胸が痛んだ。 まだ日本に来て半年ほどしか経っていない上に、日頃はバレエのレッスンとスケートの練習に明け暮れている。 ――この歳でこなすには些かハードな練習内容に、嘗て自分の弟も練習の鬼と言われていた事を思い出しつつ、その弟以上の分量の練習を求めているこの年端もいかない甥に呆れと懸念を抱くしかない―― その間は英語かロシア語しか話していない為、今でも1日の半分以上は外国語で過ごしている。 当然日本語なんて片言程度しか話せず、日本語でまともな会話なんてこの子にはまだ無理だ。 相手が身内ならなんとでもなるだろう。 何を言わんとしているかを汲み取ろうと努力もするし、大人の経験上察する事だって出来る。 けれど彼がこれから過ごしていくのは同年代の子供たちの間だ。 子供同士の方が言葉が通じなくても案外何とかなるとはいうけれど、日本は調和を重んじる国風だ。 外から来たものに対しては排他的になる事が多く、それは子供の世界でも例外ではない。 最初に馴染めなければ、その後はずっと孤独になってしまう可能性がある。 日本人の癖して中々周囲に馴染めず、結局そのまま世界に飛び出して行ってしまったあの弟の血を引く子だし。 そう思うと多少心配にもなってくる。 性格はもう半分の血を持つ男に寄っていると思うから、唯一それが救いになる事を祈るしかない。 「入矢、大丈夫?一人で行ける?」 「うん、だいじょうぶ。いってくるね、まりあんと。」 そういってランドセルを上下に揺らしながら走っていった。 日本語の発音がまだ上手く出来ない入矢は、おばさんが上手く言えない事から私の名前に[aunt]をくっ付けて呼ぶ。 その時点でもう心配しかないんだけど…聞き取りもまだ怪しいし、本当にこの子はやっていけるのだろうか。 こんな田舎でハブられるようになってしまったら、この先中学卒業まで地獄になるぞ… 祈るような気持ちで真利は甥っ子を送り出したのだった。 教室に入ると大きな黒板に座席の位置と名前が書かれていた。 取り敢えず一旦そこに座って荷物を降ろせという事らしい。 既に登校してきた他の子供たちは座席に座って、隣近所の同級生たちと談笑していた。 長閑のどかな海沿いの町で地元の子供たちは皆殆ど顔見知りの世界だから、初日から自然と会話も弾む。 クラスも各学年1クラス、それも20人居るか居ないかだから生徒同士の交友範囲も自ずと近く濃いものになる。 辛うじて平仮名の読み書きは教えて貰っていたので自分の座席が何処に据えられているのかは分かり、足を向ける。 座席にランドセルを降ろした時に隣の子と目が合った。 不思議そうな顔で見つめてくるのでどうしたのかなと思ったが、自分の目の色にでも気付いたんだろうな。 取り敢えず笑顔だ、じゃないと仲良くなれるものもなれない。 「……えっと、つかもとあきら君、だよね。ぼく、かつきいりや、よろしくね。」 名札と黒板に書いてある名前を確認して、僕は隣の少年に目一杯の笑顔で挨拶をした。 直ぐに担任の先生が入ってきたので、そのまま列ごとに廊下に並ばされて体育館に移動、入学式が始まった。 やっぱり聞き取れても意味が分からない言葉が多すぎて、式の内容は半分以上理解が出来なかった。 分かったのは起立、礼、着席で自分が取る行動があったこと――事前にまりあんとに意味を教えて貰っていたから動くことは出来たよ―― それはクラスの皆と同じように同じタイミングでしなければいけない事くらいかな。 本当に日本って同調を重んじる国なんだなぁ… と言いつつ僕はロシアでは家に閉じ込められるように育ったから、ロシア国民がどういう風潮なのか全然知らないけどね。 式が終わって生徒はまた教室に、保護者はその場に残って保護者会が始まるらしい。 …保護者会ってなんだろう。 教室に再び戻ってくると何やらあちらこちらから視線を感じる。 まぁ、遠目じゃ分からなかったから今頃気付いたって感じかな? 直ぐに先生が入ってきたから意識はそっちに向いてしまったけど、まだ何となく背後からの視線は感じる気がする。 「はい、皆改めてご挨拶です。私はこの1年1組の担任になりました中島千春です。1年間宜しくね。 私も皆の事をいっぱい知りたいから、一人ずつ自己紹介をして貰いたいんだけど良いかな? 」 教室中に元気いっぱいな声が響き渡る。 ねぇ、今先生何て言ったのかな?取り敢えず中島先生っていう名前だって事は分かったんだけど、今から何するの? ぼーっと眺めていたら一番前の角の子が指名されて立ち上がり、名前やら何やらを喋り始めた。 2人3人と順々に同じように繰り返されるのを見て、あぁ[self-introduction]かと理解する。 これ名前順なんだよね、かつきで良かったよ…日本語でもローマ字でも絶対一番最初にはならない訳だし。 名前以外は殆ど何を言ってるのか分からないから、クラスの子の名前だけはしっかり覚えようと耳を傾ける。 後でミナコ先生に[とくぎ]と[しゅみ]って何なのか聞かなきゃなぁ。 あ、いつの間にか僕の番だ。 前の子と同じように先生に名前を呼ばれてからゆっくり立ち上がる。 クラス全員の目が僕に向いてるという空気を感じる。 ねぇそれまでの子の時に後ろの方とか雑談してた子居たよね? 僕上手く日本語で喋れる自信ないんだけど… 「えっと…、なまえ、かつきいりやです。にほんとロシアのハーフ、です。 8month…あ、えっと、はんとし?くらいまえに、にほんきました。 にほんご、わからないので、いっぱい、おしえてください。なかよく…して、ください。」 数日前にミナコ先生に教えて貰った自己紹介の言葉を思い出しながら口にした。 残念ながら皆と同じように求められた答えを出すことは出来ないので、言い忘れた事があってもそこは大目に見て欲しいな。 なんて思いながらゆっくり席に座る。 もうこれ以上何か言えと言われても日本語が付いて出ないからね? あぁそういえば中島先生って英語分かるのかな…本当暫く意思疎通どうしようか。 なんて思ってたら後ろの方から拍手が聞こえてきた。 驚いて振り返ってみると斜め後ろに座っていた女の子が満面の笑みを浮かべながら手を叩いていた。 それに釣られるように他の子からも拍手が聞こえてきた。 え?何でそんな急に、どうして?って驚いていたら、前から重い音の拍手が聞こえた。 子供の手とは違う、大きな大人の手からのものだと直ぐに分かって中島先生の方を見る。 「はい、勝生君良く出来ました。まだ勝生君は日本語が分からないから、皆でいっぱい教えてあげましょうね。 先生英語苦手なんだけど、勝生君に教えてあげられるようにいっぱい勉強していくから、分からない事があれば 聞きに来てね。」 良く出来たって、褒めてくれる時に聞く言葉だよね…僕全然話せてないし分かってないのに、皆優しいなぁ。 暖かい言葉と拍手に緊張していた頬が緩んだ。 ちゃんと此処でやっていけるのかまだ不安な所はあるけど、一人じゃないんだって事が分かっただけで凄く安心することが出来た。 でもこの時僕はまだ気付いていなかったんだ。 視界に入らない背後の方から、僕の背中をじっと睨み付けている存在があった事に。 この後に待ち受けている洗礼を、まだ僕は知らなかった。 Age.10 『えー!テストって一つずつしか受けれないのー!?』 『だってネットでの申し込みが必要で、受講申し込みが各試験日で1つだけなんだもの。 それも所持してる級で受験資格を得る仕組み。』 あんたまだ初級どころか連盟登録もしてなかったじゃないの。 そういって愛弟子の頭を小突く。 だからもっとちゃんと調べてからにしろと言っていたのに、この子はそういう事務的な作業を面倒臭がるんだから。 『だって、そんな事する時間があるならリンクで滑って練習したかったんだもん…』 『まぁ過ぎた事を悔やんでも仕方ないでしょ。 此処だけだと年5回だけど、違うリンクのも入れれば春まで結構開催してくれてるみたいだから、春には6級も 取れるでしょあんたなら。』 『はー毎月此処まで出てくるのしんどいんだけど。片道2時間とか信じらんない。』 『今度真利に連れてきて貰う時は車出して貰いなさいよ。ちょっとは早く着くだろうし身体も楽よ?』 『だって伯母さん忙しいんだもん。はぁー何でミナコ先生って車持ってないのさー』 『仕方ないでしょ?私だって若い頃は世界中飛び回ってて免許取るどころじゃなかったんだから。』 ふと視線を感じて周りを見る。 既にパピヨアイスアリーナに到着し、教え子と話しながらで意識が反れていたが既に建物の中だ。 当然先に訪れている他の人間がその場にいる訳で。 (あー英語から切り替えるのすっかり忘れてた。) 親子というには随分年の離れている女と子供が入ってきたかと思えば、英語で互いにまくし立てるように言い合う――日本語では大して普通の会話にしかならない言葉でも、英語だと早口で抑揚が強くなってしまうのでどうしても喧嘩越しに会話してるように聞こえるらしい――姿は目を見張るものだろう。 子供の方はよくよく見れば蒼い目をした日本人離れした容姿だから、目に入ってしまえば目立つ。 この子の母国語になっている英語をそのまま使えるように、また慣れない日本での生活と言葉に困るだろう彼の通訳やストレスの捌け口にもなるだろうからと、普段のレッスンも含めて彼とは英語で話している。 今ではもう日本語での会話に不自由はないが、彼の頭の中ではどうしても英訳してからの会話になっているせいか大人しい子供を演じているように見える。 こうして英語で会話している時は年相応の子供だなとも思うし、言いっぷりが生意気なのでついつい口が悪くなってしまう。 勿論これも彼とのコミュニケーションの内だから決して喧嘩ではないし、彼もそうやって本音をぶつけられる数少ない相手なので甘えがあるのだ。 だからこう、会話のトーンがどうしてもそういう感じに勢い付いちゃってね! (しまったなぁ…大人しく受付済ませて会場入りしたかったんだけど…遅かったか。) 既に自分たちに向けられている視線の多くは好奇の目だ。 ただでさえこの子は何かと目立つというのに…この子も漸く周りの視線に気付いたみたい。 「……さ、ミナコ先生。早く受付すまそうよ、僕お腹減ったー。」 余所行きの笑顔を張り付けて、如何にも子供らしいという感じで話しかけてきた。 さっきまでの不平不満をぶつけてきた小憎らしいガキは何処行った。 まぁ此処で立ち止まっても仕方がないので、言葉通り受付に足を運ぶ事にした。 会場には既に何組も親子連れが来ていて、各々我が子に対して熱心に指導染みた言葉を掛けたり、甲斐甲斐しく靴の状態を確認してやったりしている。 当然ながら親子でもなければ親戚ですらない関係で訪れているのは自分たちだけらしい。 今日は初級から3級までの階級の受験テストになっているから、小さな子供がとても多い為余計に目立つ。 子供の頃からスケートをさせていれば、こんな10歳になって初めて受験するなんて珍しいだろう。 遅咲きで始める子も昨今では増えたらしいが、今日に限っては同年代以上の受験者は誰も居ないらしい。 得てしてこの子、人生初の受験に臨む勝生入矢は本日のフィギュアスケートのバッヂテストを受けに来た最年長という事になる。 ハーフとはいえこの子の場合は父親要素が強すぎるので、周りから見たら完全に外人だろう。 何故日本人じゃない癖に国内のバッヂテストを受けに来ているのかと訝しがられるのも無理はない。 当の本人はそんな周りを気にする事もなく、一人で柔軟を含めてアップを行っているけれど。 「えっと、貴方が勝生入矢君の保護者の方かな?」 背後から声を掛けられ、振り返ってみると細身の中年男性が立っていた。 名札やバッヂなどが胸元にあるので、多分スケート連盟の関係者だ。 「あぁ、はい。彼が勝生入矢です。私は付き添いの奥川ミナコです。」 「あれ、ご家族ではありませんでしたか…では彼のご家族は?」 「……あの子の両親は居ないようなものなので、今は祖父母の家に暮らしています。 彼の祖母がワタシの高校時代の後輩でして、今日は付き添いに来られない彼の家族の代わりに来たんです。」 「そうでしたか…勝生、というともしかしたらと思ったんですが…」 「何の話でしょう?私フィギュアスケートには疎くって… 彼にバレエを教える傍ら最近スケートの事を覚え始めたばかりで…」 本当はこの人が何を言いたかったのか分かっていたけど、入矢からは僕の出生については何も言わないで、知らないふりをしてくれって言われてるからね。 私が誰かと話している事に気付いた入矢が傍にやってきた。 「僕が入矢です、何かご用ですか?」 「あぁいや、何でもないよ?君は今回初めて受験に来たんだよね。」 「そうです。あの、試験って1個ずつしか受けられないんですよね?」 「そうだねぇ…君は初級を受ける前に連盟登録をしていないから、受講票をこれから発行する事になるし… 他の受講者も居たりすると時間がまず足りないな。 今日みたいに3級までって受講者を区切っている日もあるし、人数が多いと制限時間にも限りがあるからそっち でダメだったりもする。君はもうある程度滑れるのかい?」 「滑れます、ジャンプだって全種類飛べるし、コンビネーションだって出来ます。」 「ほぉーじゃあ3級まで取れる自信があるという事か…課題内容は全部把握しているかい?」 「大丈夫です。此処に来る前に試験内容は全部覚えました。」 「全部…そうか。」 一体何処までを見て全部と言ったのかは分からないが、相当自信があるようだ。 此方を見据えてくる彼の目はとても真剣で、強い眼差しが此方の心を見透かしているかのような錯覚を起こす。 幸いにも今日は受講者は少ない方だ。 8月の盛りだがこの時期は長期旅行などで受験しに来る子は案外にも毎年少ないのだ。 この後にスケート連盟加入の手続きを直接して貰えれば階級もその時に登録出来る、今日受験予定の3級までくらいなら便宜は図ってやれるだろう。 「分かった。取り敢えず初級の子から順番にテストが始まるから、まずはそこからね。 試験官には伝えておくから、合格を貰ったら次の級に進みなさい。」 「ありがとうございます!えっと…榊原さん。」 「おぉ、名札の字読めたのかい?凄いねぇ、大人でもたまに読めない人がいるのに。」 「あぁ…えっと、日本語って面白いから、ついつい辞書とか眺めちゃって…それで覚えました。」 「おや、賢いねぇ…それじゃあ試験、頑張ってね。」 「ありがとうございます!」 そういって男はその場を後にした。 思わぬ所で助っ人が現れた、これで試験を受ける回数を減らすことが出来る。 ただ、去り際に僕を見やった彼の目が少し気になった。 “榊原”が読めたのは辞書で見つけたからじゃない。 何処かでその名前を見て、それで何て読むのか気になって調べた事があるからだ。 じゃなきゃ人の名前なんて早々に読み方を調べる事なんてない。 けれど、それが何処だったのかが今一つ思い出せない。 その事がとても大事な気がするんだけど、何処だっけな。 『あんた…さっきのジャンプ云々の話、全部トリプルジャンプの話よね。』 『アクセル以外は全部飛べるよ?それも今年中にはマスターするつもりだけど。』 『大丈夫なの?私フィギュアのこと本当分かんないんだけど、その年で早すぎるんじゃない? 身体壊したら元も子もないんだからね?』 『その辺は大丈夫だよ。 回転は体重移動と軸の作り方で最小限度の力にしてるし、着氷時にも身体のバネをちゃんと使ってる。 今の時期の方が体重は軽いから寧ろ安全かな?これから身長伸びてからの方が心配してるよ。』 『アンタのその物言い…親に似た訳?全然子供らしくないんだけど。』 『僕は学校の友達と遊ぶよりもミナコ先生やヴィーチャと一緒にいる時間の方が長いしねーまぁ当然じゃない?』 『ホントあんたって可愛くない。』 再び英語でしゃべり始めた二人に、また周りの視線が集まる。 騒めきを感じて振り返った榊原は会話の内容を耳にして言葉を失う。 日本人の多くは学校で習う程度しか英語に触れる機会がないから、今し方の何気ない会話ですら周りの親子連れは何を言っているのか分からなかっただろう。 だが榊原には分かっていた。 彼は長年スケート連盟の役員として若い頃はシーズンになると世界を飛び回っていた。 他国の連盟職員との会話は専ら英語で、ビジネス英語以上の話術だって身に着けている。 今日此処に来たのはたまたま福岡のスケート連盟の会長との約束があったからだ。 用も終わりそのまま東京に戻ろうと思っていたら、今日バッヂテストを受ける名簿の中に彼の名前があってふと気になってしまった、という理由で予定を変更したのだ。 榊原にとって“勝生”という名前は、それほど特別だった。 勿論“彼”に関りがあるだなんていうのはただの願望であって信じてなどいなかった。 ただ何となく、この子に会っておかないといけない。 そんな気がしたから足を運んだだけだったのに… (彼が言った飛べるジャンプっていうのは、トリプルだったのか…あの歳で…) 何故今までバッヂテストを受けに来なかったのかは分からないが、名簿では今回が初登録。 どこのスケートクラブにも所属していないらしく、彼の情報は全くないに等しかった。 だからこそ気になったと言えばそうなんだが…これは思わぬ収穫だ。 “彼”と関りがあるのかは現状分からないが、もし先ほどの言葉が本当ならこの少年は“彼”以来の逸材になるかもしれない。 明らかに彼には外国の血が混じっているが、戸籍も姓も日本であるならば問題はない。 まずはこの後のテストでその実力とやらを見極めてみようか。 男は胸の内に久々に高揚するものを感じながら、その場を後にした。 Age.16 県立F岡高校。H多駅に近いこの高校は僕が住んでる長谷津に比べたら大都会だ。 人口も多いし周りの建物もマンションだったり商業施設だったり、ホテルも大きいから景色が別物だ。 中1からジュニアの大会に出るようになり都会の雰囲気にも随分慣れたように思うけど、一時的な滞在と実際に住むのじゃ全然違う。 何故進学と同時にF岡まで出てきたのかっていうと、高校に通いつつスケートを続けるには新しい環境が必要だと思ったから。 偏差値も地元の高校じゃ高くないしね、色々な総合判断で地元を出ることに決めた。 此処だと直ぐそこに通年営業をしているパピヨアイスアリーナというスケートリンクがあるんだ。 このリンクに再び足を運ぶことになろうとは、小学生の時の自分には考えられなかったことだけど。 学校からだと200mくらいだからランニングがてら走っていけば五分とかからない。 毎日スケートを滑るには打ってつけの環境だ。 空港へのアクセスも良いし、海外遠征時の事も踏まえての選択だった。 少々困り事があるとすれば地元で築いてきた交友関係がリセットされてしまった事かな。 どうしてもシーズンが始まってしまうと授業を休みがちになってしまう。 正直試合の間隔が一時期に集中してしまうと丸2か月くらい学校にいけないなんて事もあるし、そうなると授業のノートとか借りなきゃいけなかったりする。 先生とのコネクションも必要だしな…教科毎に先生が違うからそれぞれ話をしに行かなければいけない。 事幸いなのはフィギュアスケート特別強化選手にどうも選ばれそうだから、支援に関しては厚くなりそうって事くらいかな。 日本を背負って試合に出るとなれば、高校側もある程度は譲歩してくれる筈。 ……多分ね。 クラスメイトとはそれなりに良好な関係でいられたとは思ってる。 本当にソレなりに、だけどね。 流石に3年連続世界の舞台に出るようになれば、僕の存在を知ってる日本国民も自然と増える。 入学早々僕の素性がバレてクラスメイト達の僕を見る目は正に有名人を見る其れそのものだった。 取り敢えず僕が此処にいる事はインスタ等々拡散する恐れのある所には書かないように、学校を通じてお願い的なのはしているけど、地元と比べるとセキュリティは確実に低いだろうなぁ。 なので半分此処にいる事がバレるだろう事は諦めている。 中学までは閉鎖的空間にいられるけど、高校になると結局何処に通っても広範囲の地域からの生徒で溢れてしまう。 8クラス10クラスなんてざらにあるからそもそもに全員を抑える事なんて出来ないだろう。 地元を出た理由はそれもある。 出身高校がバレても僕の実家が公になる恐れはないからね。 あぁ、あともう一つ良い事はあった。 それは彼が同じ高校にいる事だ。 丁度会いに行こうと思ってた所に、彼の方から教室にやってきてくれた。 向こうから会いに来るなんて珍しいからビックリしたけど。 席を立って入口で出迎えると相変わらずの仏頂面で話しかけてきた。 『久しぶりだな…相変わらず腑抜けた面しやがって。』 『久しぶりに会ってその言いっぷりはないんじゃないの?鷹斗。』 『良かったな、試合の間隔空いてて。一回帰ってこれたじゃん。』 『正直日程は詰まってた方が良かったんだけどねぇ…間学校に通うのも面倒だし。』 『お前それクラスの奴らには愚痴ってねぇだろうな。』 『言う訳ないじゃん、僕一応クラスでは品行方正な生徒だよ?』 『相変わらず猫被ってんのかよ、本当お前の本性知ったらクラスの奴ら幻滅するだろうな。』 『ふふっ、それを守ってくれてる鷹斗は、何だかんだ言って優しいよね。 何で学校にいるのに英語で喋ってくれてるのかな?』 『そんなんじゃねぇし、勘違いするな。 俺にとっちゃ、お前の本性がスケート馬鹿で他人の視線なんててんで気にしない自己中心的な奴だったとしても 大したことじゃねぇしな。 これは日課だ、普段から喋ろうにもお前以外じゃ大して会話にもなりゃあしねぇんだもんよ。』 彼の名前は古川鷹斗、小学校からの唯一の同級生だ。 元々同級生が20人しかいない上に県外の進学校に進学となると必然と昔馴染みの顔なんて無くなる。 彼は唯一今でも繋がりのある、僕の事を外面じゃなく内面でしっかりと見てくれる数少ない人間。 第二性はβだけど彼はとても優秀だ。 この高校だって県内トップクラスの進学校だけど彼は学力テストできちんと入学してるし、柔道の腕も立つ。 中学の時に全国大会に九州代表で出場して総合三位になっている実力者だ。 その時の上位2人がαだった事を今でも悔しそうに話す。 次に会った時は必ず倒すって何時も言ってるよ。 鷹斗は第二性で全てが決まるだなんて思っていない。 強くなれるかどうかは元来の性質だけではなく、日々の努力が最も大事だと考えている。 だからαだからと偉そうにしている人間は大嫌いだし、βやΩだから卑屈になっていいだなんてもっての外。 人間の良し悪しはそんなものでは決まらない、というのが彼の持論だ。 出来ないのは己の努力が足りないから、自分を律しようともしない人間が偉そうに言うなって事らしい。 そう言えば最初は彼に思いっきり噛みつかれたっけな。 ハーフでちやほやされて浮かれるなとか何とか言ってた気がする。 あの当時の僕は言葉が殆ど分かってなかったから微塵もそんな事は思ってなかったんだけど、伝える術も理解する言語力もなかったから彼の怒りの意味が分からなかった。 少しずつ、言葉を覚えて会話をしていくうちにその蟠りはいつの間にか解けていたけど、そういえば何時からこんな風に話すようになったんだっけ。 僕は鷹斗の事を親友だと思ってる、彼がそう思ってくれてるのかは分からないけどね。 本心で話しやすいようにと二人っきりの時は僕に合わせて英語で話してくれる。 そう言えば話せるようになりたいから英語教えてくれって、鷹斗から言ってきたんだよね。 ――彼は自分の語学力を鍛えたいという名目で教えてくれって言ってきたんだけど、多分それは建前だと思ってる―― そうやっていつの間にか隣にいる事が当たり前になってたし、僕がジュニアの試合に出るようになってテレビに映りだしたりしてから周りがどんどん腫物を扱うような、遠巻きに僕を見やるようになってからは本当に距離が近くなった気がする。 彼だけは僕を特別扱いする事もなく、世界選手権で銅メダルを取って帰ってきてもいつも通りだった。 スケーターの勝生入矢ではなく、友人の勝生入矢として何時も接してくれていた。 彼のその態度――元々特別扱いだったり性差を問う事は本人が大嫌いだったからだろうけど――には本当に救われた。 だから彼とはこれからも良き友人で居たいと思うし、彼もそう思ってくれていると嬉しいな。 でも時々彼の事心配にもなるんだ。 本当鷹斗ってデリカシーないし、分け隔てなく接してくれることは嬉しいんだけど、人の事なんだと思ってるのかって時々苦言を呈したくなるくらいに口が悪い。 英語で喋ってても発音のニュアンスで彼の言い回しは容易に想像が付く。 高校では別のクラスになってしまったけど、ちゃんと自分のクラスで上手くやってるのかな? 昔からこの歯に物着せぬ言いっぷりだから敵作っちゃうことも多いんだよねぇ。 『ほらよ、続きのノートのコピー。必要だろ?』 『いつもありがと。助かるよ、実は来週放課後にテスト受けに行かなきゃいけなくなっちゃってさー』 『あーまぁお前今回はガッツリ中間テストに被るように試合だもんな…でも先に受けるって何だよそれ。』 『そんなの僕が聞きたいよ。あれでしょ?僕だけの為に別のテスト作ったり文化祭の時期にテストさせる時間作る のが面倒なんだよ、きっと。』 『お前年末も日本選手権あるし、年明けたらまた学年末テストと日程被ってくるしな。 絶対出るだろ?世界ジュニア。』 『何でシニアの時期にやってくれないのかなーそれだったらギリギリ皆と試験受けられるのに。』 『まぁお前が自分で選んだ運命だ、それは死ぬ気で頑張れ。』 『はーい、頑張りますー』 『それはそうと、さっき立川先生がお前の事呼んでたぞ。』 『え、本当?何だろ…昼休みに?』 『さぁな、さっき職員室にコピー機借りに行ったら呼んできてくれって言われただけだし。』 『ふーん…まぁ行けば分かるか、ありがと。行ってくるよ。』 『おーもう直ぐ午後の授業始まるから急げよー』 『分かってるよ。じゃあね鷹斗。』 足早に僕はその場を後にした。 15分で行って帰ってこれるかなぁと少し心配になりながら。 その背後でまさかひと悶着が始まるとは知りもしないで。 「…貴方、何処のクラスの子?」 「俺知ってる、確か7組の古川だろ?」 「……それが何か?」 「何かって、何勝生君と親し気に話してるのよ。 しかもさっき渡したのってノートのコピーよね? 何で他のクラスの貴方がそんな勝手なことしてんの?!生意気ね!」 「はぁ?お前何言ってんの? そんなの彼奴あいつが俺に貸してくれって言ってきたから持ってきただけじゃねぇか。 何でお前なんかに生意気とか言われないといけない訳?」 「なっ…!!ふ、普通同じクラスの私達を頼ってくるでしょ!? 貴方が勝手にそんな事してるから勝生君に余計な手間が掛かるじゃないって言ってんの!」 「いやだから、お前らに頼って何とかなってるなら、端から俺に言ってくる訳ねぇだろうが。 意味分かんねぇ事言うんじゃねぇよ。」 「はぁぁ!?あんたが先に手を出したんでしょ?! だから勝生君何も私達に言ってこなくなったんじゃないの!!」 「おい止めろよ環奈…確かに俺たちに頼ってこなかったから変だとは思ってたけど、勝生が頼んだんだろ?」 「だから、それが何でかって言ってんの!!あんた勝生君の何なの? クラスも違うのに仲良くしちゃって…英語で会話してるとか信じらんない!」 「…はっ、話してる内容が分からなくて悔しいからって、何そんなムキになってんの? 知りたければしっかり英語勉強してこいよ。 別に大した事話してた訳じゃねぇし聞かれても何も問題ねぇよ。」 「なっ……!!」 入矢と同じクラスの…多分このクラスで結構いびり倒してる奴だろう、入矢から聞いた事がある。 口調も強いし傍にいるクラスメイトも口出し出来ずにおろおろしてやがる。 何プライドだけ一丁前でキーキー騒ぎやがって…口出すならもうちょっと中身のある事喋れよな。 「大体、何で入矢が俺を頼ってくるのか考えた事あんの? お前みたいにあーだこーだ口出してくる奴がいるからだろうが。」 「はぁぁ!!?何で私のせいなのよ!!!」 「お前、入矢が俺以外の奴に頼ってもそんな事言うんだろ? それこそ隣に座ってるってだけで声を掛けたとしても、入矢がそいつを特別視したとか言い出して声掛けられた 奴をこんな風に攻め倒したんじゃねぇのか?」 「……っ!!」 「彼奴あいつは普通にクラスに溶け込もうと話しかけたりしてるだけなのに、お前みたいに彼奴が他の奴と喋った り頼ったりするだけで嫉妬心剥き出しにされる奴が居たら周りに気を遣うに決まってんじゃねぇか。 自分の言動でクラスの奴ら巻き込むくらいなら、距離を置こうとするのも当然だ。 これでお前一人を宥める為にお前にばっかり話しかけたりしたら、それこそお前がまた勘違いして暴走するん だろうが。 入矢はお前のもんじゃねぇし、彼奴が普段誰と話そうが何をしようが、それは入矢の勝手だろ。 変な探りや脅しで彼奴の交友関係勝手に縛るんじゃねぇよ、お前何様のつもりだ。」 「………っ!!」 「お前が彼奴あいつを好きかどうかは本当勝手だけどな、てめぇの事はてめぇで入矢本人にぶつかって何とか しやがれってんだ。 彼奴なりにクラスの奴らに気ぃ遣って、でも授業受けてない分はどっかで埋めないといけねぇって困り果てて、 仕方ねぇから俺を頼ってきたまでの事だ。 別に俺から声を掛けた訳でもねぇし、クラスの奴らに頼りたくないとかそういう身勝手でそうした訳でも ねぇよ。」 周りにいた男共に視線を向けて、決してお前らに何かがあった訳じゃねぇよって目で言ってやった。 俺の物言いと視線で合点がいったみたいでちょっと安心した顔をしてた。 前々から入矢から聞いてたけど、この環奈って女本当に自己顕示欲の塊みたいな奴だな…俺こういう奴本当大っ嫌い。 「今度彼奴がまた俺を頼ってきたら、まだお前が入矢の事縛ってるんだなって俺にバレるって事だから。 二度と俺の顔見たくなかったら、精々彼奴に気に入られるように直接アプローチでもなんでもするんだな。 まぁけん制ばっかりで献身の一つも何も出来ない女なんて、入矢じゃなくても好きになったりなんてしねぇと 思うけど。」 女はもっと慎まやかな方がモテるぜ? そういって吐き捨てるように俺はその場を後にした。 空気で分かる、背後ではあの女が怒りと羞恥を抑えていきり立ってるだろう事は。 上手くいかない事を全部他人のせいにするような他力本願な奴は、本当に心底嫌になる。 俺が何だかんだ入矢の事を認めて、今日まで関係が続いているのは… 彼奴がαという自分の才に溺れることなく、日々血の滲むような努力をしてフィギュアスケートをしている事を知ったからだ。 そういう真っすぐな奴は嫌いじゃない、寧ろ最大限に好感を持てる。 だから俺は彼奴の力になってやりたいと思うようになったし、彼奴の事を天才だのカッコいいだの素敵なαなどと囃はやし立てるような“外面”しか見ないような奴はいけ好かない。 そんな表面しか見ないような奴らにどう思われようが気にしない。 俺はこれからも、自分が信じた道を行くだけだ。 ただ日々を送るのに寂しいだの退屈だのという理由で友人を作ろうとも思わねぇ。 そう、俺にとって入矢は戦友みたいな感じだ。 だから彼奴とはこれからも何だかんだ関係が続いていくんだろうなと、漠然とだが思ってるだけだ。 それは別に、特別視している訳じゃねぇよ。 だからいい加減その勘違いを止めろよな、くそアマ。 内心で毒づいて、それでも若干まだ胸の内がムカムカするなと思いながら、鷹斗は教室に戻っていった。 それから数分後。 教室に戻ってきた時に言いようのない微妙な空気に包まれたクラスメイトを見て、鷹斗が何か爆弾を置いていったんだなと思った入矢だった。 close
pixiv連載時はAge.22も含めて四択で連載箇所を読者様にアンケートを取るという形で投稿していました(笑)
結果Age.22を連載する運びとなりましたので、連載時は加筆修正を行い、次の「神はその身に霹靂を受ける」を執筆した次第です。 このお話はそれ以外にも書き切れない過去の伏線を目的としています。 此処のお話全体が何かしらこの先のお話に繋がっていたりネタとして登場していたりするのです^q^← |