神が生まれた日

その存在は世界に戦慄を走らせた、正に青天の霹靂。
神のような存在感、悪魔のような脅威。
嵐を呼ぶとはこの事だろう。
遂に“奴”がシニアに上がってくるというニュースは瞬く間にフィギュアスケート界に広まった。

ジュニア初出場から常に表彰台の座を手にし、その後その段数を上げ3年連続世界ジュニアを席巻した猛者がいよいよシニアに上がってくる。
トップフィギュアスケーター達を震え上がらせるような知らせに、世界が沸いた。
今年のグランプリファイナルと世界大会は大きく動くだろうという報道が各国のスケート界を駆け巡った。
多くのファンが首を長くして待っていた、彼の少年がシニアに進出するという知らせ。
既に世界中のスケートファンの間でも話題になっていて、少年の名は多くの人間に知れ渡っていた。

少年の名は"勝生入矢"。
日本人のフィギュアスケート特別強化選手であり、ジュニア選手として世に出てきて僅か3年目、15歳の時から頂点に立ち続けているという経歴の持ち主。
既に絶対王者の風格を漂わせ、その場にいる者たちの視線を奪う。
色素の薄い黒髪を靡かせ、スポットライトに照らされた白磁の陶器のような肌は光を反射する。
さらりと流れる黒髪の隙間から覗いている双眸から放たれるのは、温度を失った氷のような透き通った蒼色の輝き。
端正な顔立ちからは感情の色が見えず、その姿を目にした者たちは皆言葉を失った。
変わり果てた、青年に近付く少年のその様相に。

昨シーズンまでの、ジュニア時代の彼をよく知る者達は驚愕した。
まるで別人のようになってしまった少年に、この半年ほどの間に何が起こったのだろうかと。
花が舞うような天使のような笑顔を満面に称えながら、華やかに楽し気に滑っていた、あの少年の姿はどこに消えてしまったのか。
顔立ちは間違いなくあの少年の筈なのに、別人がそこにいるようにしか思えないほどの変貌ぶりだった。

しかし何が彼を変えたのか、誰にも分かる筈がなかった。
何故なら“勝生入矢”という少年の事は世界中の誰もが知りたくても知りえない、未知の存在になっていたからだ。
出生、所在、ホームリンクの場所もコーチの存在も何一つ情報が出ていない。
正確には彼自身が明かせないと頑なに情報開示を拒み、メディアへの出演も全て断っていたからだ。
そう、変貌した彼の姿を目の当たりにした瞬間、世界は彼の事を何一つ知らない事を思い知らされたのだ。



神が生まれた日



あ、どうも。僕はテレビ朝日アナウンサーの加藤崇です。
入社してもうすぐ5年、スポーツキャスターとして日々奮闘し、3年前からはフィギュアスケート中継も担当するようになりました。
元々このポジションは諸岡アナが熱狂たっぷりに勤めていたんだけど、諸岡アナがフリーアナウンサーに転身したのを機に僕が担当を変わることになったんだ。
諸岡アナは個人的に熱狂的なスケートファンだから、他局のスケート特集番組で昔と変わらず熱い実況を繰り広げているよ。
僕にあの人の代わりなんて到底出来るものじゃないから、自分なりに日々頑張っているところだけどね。

僕がフィギュアスケートの担当をするようになって2度目のシーズンに、突如として一人の少年が現れた。
まだ13歳の幼さを若干残す、一言で表すなら綺麗な少年だった。
ノービスで活躍していた選手は必然とその名も知られている事が多いけど、彼がその名を初めて晒したのは中四国九州ブロックのジュニア大会。
彼を知る人は誰一人としていなかったんだけど、突如現れたこの一人の少年にその後驚かされ続ける事になるとはこの当時誰も想像していなかったよね。
フィギュアスケートは所詮個人主義の戦い。
それはこの世界の事をより深く学ぼうと勉強をしているうちに、僕自身が痛感した。
周りの強さだけでは勝負は決まらず、結局のところ強い者が勝利を得る。
彼は初出場だというのに一切物怖じすることもなく、あっという間に表彰台の玉座を手にしていたんだ、本当に驚いたよ!

僕は最初シニアの試合しか追っていなかったから後で知ったんだけど、シニアと違ってジュニアには課題が与えられてる。
更に肉体の成長の面から、10代を折り返すまで4回転を飛ばせることがまずないから、プログラムに対する制約が強いらしい。
その為どうしても演技構成に関してはバリエーションがない分横ばいになりつつあり、4回転を飛べるようになってくる十代後半の選手の方が技術精度の面から言っても圧倒的に有利なんだって。
まぁ当たり前だよね、身体も出来上がってて経験もある年長者の方が、何処の世界においても強いに違いない。
なのに彼はそんな世間の常識を屑替えしてしまうような偉業を何故成しえることが出来たんだろうか。

偏にそれは彼のプログラムの完成度の高さとミスを殆どしない事だった。
体調や精神面の波もあるし、ジュニアで滑る少年少女たちは成長期の真っただ中。
目に見えない程度であっても日々身体の変化があるから、急に飛べなくなったりスピンの軸がブレてしまって上手く滑れないなんて事もよくあるらしい。
だが彼には“失敗”の二文字が完全に抜け落ちてしまった、そうとしか言えないほどの完璧なジャンプの数々。
更にシニアの選手も顔負けの軽やかでしなやかなステップシークエンスだった。
演技中はその世界に没頭し、感情豊かに表現するスケーティングは見るものを魅了していく。
表現力の高さに加えて技術力も評価され、彼の滑りには加点ばかりで減点されることがない為その得点は必然と跳ね上がる。
今の時代はどれだけジャンプが飛べるか、4回転の種類を増やせるかが焦点だと言われてる。
基礎点が高いジャンプを多く飛んだ方が俄然有利だと誰もが思ってるからね。
でも彼を見ていると分からなくなってくるよ、だって西日本大会で表彰台の一番上に立ってるよ?
確かシードを逃がした選手に日本代表候補の子って居たよね?
一体どんな試合だったんだろう、結果だけ聞かされても全然理解出来ないよ…


僕が彼に初めて会えたのは全日本選手権の時。
その頃の事はとてもよく覚えてるよ。

既にブロック大会と西日本選手権で初出場で首位を勝ち取った少年の情報は聞いていた。
凄く楽しみだったんだ、突如日本のスケート界に現れた超新星である少年が一体どういう子なのか。
初めてその姿を見た時には衝撃が全身を走った。
少し長く伸びた黒髪はサラサラと風に靡いていて。
普段は太陽の下に居てもその色は強く黒だと錯覚してしまうけど、正確にはスティールグレイ。
日本では鈍色と呼ばれるくすんだ灰色だ。
そしてスケート会場のような強いスポットライトを浴びる場所では、その色はアッシュグレイへと変化する。
肌は白磁の陶器を思わせるような透明感のあるもので、髪と同じ色の睫毛に縁どられた瞳の色を言葉で表現するなら綺麗な蒼。
南国の海を思わせるようなシアンブルーの瞳だった。
一目見てわかるほど、彼の中には間違いなく日本人の血と違うものが流れている事が分かる。
当然の如く好機の目が彼に向けられていて、僕以外の報道記者も彼の姿を捉えようと多く集まっていた。

「勝生選手、初出場でこの全日本選手権に挑む意気込みをお聞かせ下さい!」
「その強さの秘訣は何でしょうか?ハーフだと伺っていますが、もう半分の血の影響でしょうか??」
「あの“勝生選手”との血縁関係の噂の真相はどうなんですか!?」
「指導者であるコーチは一体誰なんですか?!今日も此方には来ていないんでしょうか??」

他局の記者達は日本選手権の放送権がない為会場に入ることが出来ない。
その為現地入りしてきた彼を見つけるや否や一斉に群がり、囲うように先々にマイクを向ける。
熱気の籠ったアナウンサー達をまじまじと見つめながら、少し驚いた表情で固まっていた。
まだ13歳の少年だ、これだけ沢山の記者に囲まれるなんて当然経験がないだろう。
普通なら付き添いの家族かコーチが傍にいてそういうマスコミ対応をするものなんだろうけど、生憎その姿は彼の隣にはない。
というか、まだ未成年である中学生に誰一人付き人が居ないというのは些か問題があるのではないか、と頭を抱えたくなる。
僕は日本選手権を中継する職務柄、この後彼と行動を共にするだろうから連れ出すなら今だ。

「はーい皆様すみませーん、彼はこれから会場入りして試合に備えなければいけませんので、お引き取り願いますかー??」
「ちょっと、何ですか貴方!」
「はーいはい、皆様どいて下さーい。これ以上選手の邪魔したら、協会のお偉い方に出禁にされちゃいますよー」

ぽかんとした表情を浮かべている少年の手を引きながら、報道陣をかき分けるように僕は会場の扉を潜った。
警備の人間の横を通り抜け、外からは見えない奥の通路の方まで少年を牽引してくる。
背後を振り返っても彼らは入口でしっかり足止めされているようで誰の姿もなかった。
そこまで確認して、僕は漸く掴んでいた手を離して振り返る。

「ごめんね勝生君、いきなり引っ張ってきて迷惑だったかな?」
「…いえ、ありがとうございます。 どうやって切り抜けようかなと思っていたので助かりました、加藤さん。」
「あれ、僕の名前…知ってるの?」
「名札です、それだけ大きなのを首から下げてたら誰だって分かりますよ。」

あぁ、入館証にはそういえば大きく名前が書いてあった、ご丁寧に顔写真付きのものだ。
しかし首から下げてるだけなのでヒラヒラくるくると向きを変えるだろうに、どのタイミングで彼はそれを盗み見たのだろうか。

「入館証を持ってるという事は、関係者の方ですよね?」
「あぁ、僕はアナウンサーなんだ。今日の日本選手権の放映を担当していてね。」
「そうだったんですか。じゃあ後でまた会場でお会いしますね。」

今日はよろしくお願いします。そういって少年はにっこりと微笑んだ。
その笑みが余りにも美しく輝いていたので思わず息を呑んでしまった。
ハーフは総じて美人が多いというが、彼は特別美しい部類ではないだろうか。

「しかし到着早々殺到する記者も記者だけど、君も一人で会場入りするだなんて無謀だよ。
 保護者は一緒じゃないの?此処まで一体どうやって来たの?」
「付き添いの大人はいますけど…生憎コーチでも身内でもないので、今日は観客席で試合を観戦する事になって
 いて別行動を取っています。」
「え、今日もコーチ居ないって…君本当に一人で試合に臨んでるの??」

事前にブロック大会と西日本選手権の時の彼の情報は聞いていたけど、十代前半の子供が一人で試合に来るだなんて聞いたことがなくデマじゃないかと思ってたのに。

「勝生君の実力を見ればコーチが居るのは間違いないよね?何で君一人で試合になんか…」
「…ごめんなさい、その件に関しては何も言えません。」
「何も言えないってどういう…」
「…否定しても意味がないだろうから言いますけど、確かにコーチはいます。
 でも事情があってコーチが誰なのかは誰にも言えないんです…」

それがコーチとの契約なので。目を細めて穏やかにそう口にした。
その表情がまだ中学生になったばかりの少年のものに何処か思えなくて戸惑ってしまう。
勿論彼に混じる外国の血のせいなのか、一般的な日本人の同世代の子供よりも一回り大人びて見えるのは事実だけど。

「……僕の記憶だと、コーチが居るって事自体も世間には言ってない事…だよね?どうして…」
「何れ問い質される事ですし、それに加藤さんは僕の事を心配してくれて言ってくれましたから。」

ああいう人たちは僕の一言で心無い記事を書き上げるかもしれませんが、貴方は違うと思ったので。
そう言われると悪い気はしないが、何れにしても一人の大人としてこの少年の置かれている環境には些か納得のいかないものがある。

「しかし、勝生君のコーチは一体何を考えているんだ…
 仮に自分の正体を明かせないにしても、君をたった一人で此処に送り込む理由ではないだろ?
 親御さんはどうしてるんだい?来れない事情があるの??」
「……それも、ノーコメントです。ごめんなさい。」

まさかそれすらも彼のコーチによって口封じされている…のか?
一体どんな事情があって明かせないのか、僕には懐疑心しか浮かばない。
仮にもまだ13歳の子供にそんな重荷を背負わせるだなんて、どんな神経をしているんだ。
僕のそんな腸煮えくり返るような怒りを察したのか、彼は物憂い表情で僕を見つめていた。

「……全部、僕の為なんです。
 本当の事を言えない手前説得力は何もないですけど、あの人なりに僕の事を考えた上での判断なんです。」
「でも…それにしても……。」
「明かせないのは、僕がまだ無名のスケーターだからです。今はまだ、その時じゃない。」
「その時……?」
「僕がもっと強くなって、有名になる日が来たら…話せる日が来るかもしれませんね。」

そうしたらきっと僕の事に、僕の存在に気付いてくれるかもしれないから。
薄く開かれた唇から零された言葉に僕の方が驚かされてしまった。

「加藤さん、そろそろ行かないといけないんじゃないですか?此処に集まる選手は僕だけじゃないですよ?
 早く戻った方が良いと思います、僕はもう大丈夫ですから。」

じゃあまた後で。
そういって彼は踵を返して足早に立ち去ってしまった。

僕はその後ろ姿を見送りながら、彼が今しがた発した言葉を反芻していた。
“僕の存在に気付いてくれるかもしれない”、彼はそう言ったのだ。
その時僕の脳裏に一つの仮説が生まれた。

もしかして、あの噂はやっぱり本当なのかもしれない。

嘗て日本に世界のトップスケーターとして同じ勝生の姓を持つ選手がいたんだ、名前は“勝生勇利”。
彼が現役引退してからもう15年近く経つけど、その後の行方は世間にも知られていない。
表舞台から突然消えたんだ、一度は実家である佐賀県に戻ったのだという噂は聞こえてきたけれど、その後の足取りに関しては誰も知らなかった。
ある日突然一人の人間の所在が、まるで抜け落ちたページみたいにひょっこり消えてなくなるだなんておかしいと思うだろ?
だから最初に入矢君が現れた際は彼の息子ではないかと多くの人に囁かれたんだ。
だけど“その容姿が余りにかけ離れている”事と、彼が“父親である筈がない”という事からその推測は直ぐに除外されてしまった。

その理由は、未だに尚αがほぼトップを占めているフィギュアスケート界で、後にも先にも彼だけがΩの性を持つスケーターだったから。
Ωは子を産む事に長けた性なので男であっても孕ませる能力はないらしく、父親になることはあり得ないとされている。
スケート界においても他のアスリート達と同様に、多くのαが活躍している。
スポーツの世界っていうのは恐ろしい、世間にこれだけのαが居たのかと驚くばかりだしね。
その中に普通であればΩの選手が居られる場所なんてない。
身体能力的に劣っていると言われているだけじゃなく、Ωのフェロモンはαを惑わせる厄介な存在だからだ。
昔よりも抑制剤の質や効き目が良くなって、多くのΩもβ同様に生活できるようになったとはいえ、スポーツ選手の世界では僅かなフェロモンですら命取りになる勝負の世界。
だからどうしてもαの多い世界に於いて、Ωの扱いはかなり排他的だ。
そんなΩである勝生選手が長くスケートを続ける事が出来た一因として、既に己には番がいて他のαを勾引かどわかす恐れがないからと公言していたから。
静かに引退しその後の進退も全て公の場には晒さなかった為に、結局その番の相手が誰であったのかは彼の存在と共に闇の中に消えた。

僕が咄嗟に考えたのは、入矢君の背後に居るというコーチが、もし勇利君だったらという仮定だ。
彼は現役時代世界中を渡り歩いていたスケーターだ、番のαが外国人だったとしても不思議じゃない。
番が何処の誰なのかは結局明かされなかったけど、逆に言えば名前を言えないような相手――立場的なものや身分的なものだったり色々あるけど――だったから頑なに隠したのかもしれない。
入矢君の言葉は、世界の何処かにいるかもしれない父親に向けてのメッセージだとしたら…
勝生の姓を名乗っている事にも合点がいく、同じ姓であれば関係性に気付いて貰えるかもしれないからだ。
もし本当にそうだとしたら、入矢君の健気な思いに早く気付いて欲しい。
父親に捨てられたのか、はたまた何か事情があって離れているとしたら急ぐ必要があるだろう。
番を失ったΩは一様に短命だと言われているからね。
もし本当にそうだとしたら…僕は身震いするしかなかった、そうでなければ良いと思ってしまうよ。



その後彼はその年の全日本選手権に出場した。
既にシード枠を獲得している選手たちが多くいる中、初出場の選手が一位の座を手にする事は極めて難しい。
そう、本来ならばね。
しかし彼は予選会以上の滑りを観客に見せて、誰もが驚愕する中彼は満面の笑みを浮かべながら金色のメダルを手にしていた。

他の十代後半の優勝候補の選手たちは僅かながらも4回転ジャンプを取り入れている。
構成点で補うにしても根本的に技術点で基礎点の差が出てくるから、どう考えてもまだ4回転を飛ばない彼には優勝を狙うには不利だった。
だけど彼はそれを補ってしまった。
基礎点の高いジャンプの多くを演技後半に集め――SPに至っては全てのジャンプが演技後半という普通の選手にはあり得ない構成だった――コンビネーションスピンやステップシークエンスに至る全ての必須要素でGOE+2若しくは+3に近い数字を叩き出すという驚異的な完成度の演技。
まだ齢13歳の少年がそれだけの滑りをするなどとは誰も思って居なかったよね、僕も実際に目の当たりにして全身に鳥肌が立ったよ。
華麗に着氷するその姿を捉えた映像は瞬く間に日本中に広まっていった。

彼の周りは兎角謎だらけで憶測ばかりが飛び交っている。
己の出生に関すること、また自らを指導するコーチの存在。
ホームリンクの場所も明かさず日々の練習風景なども含め一切情報が流れていないんだ。
何処の誰なのかも分からない少年が突如現れたかと思ったら、あっさりと世界という大舞台で表彰台に立ったというのだから当然世間が騒がない訳がないよね。
しかし彼は様々な推理を交えた質問を投げかけられても、当の本人はそれは面白い話ですねと笑って受け入れてしまう。
更にこの少年の立ち振る舞いもある意味で性質が悪い。
何を投げかけられても常に否定も肯定もしないが為に、結局のところ真実ははぐらかされてしまって何も分からず仕舞いだ。
勿論憶測は多く飛び交い、その中には真実に近いものもあると言われているものの、何処にも確証たるものがない為所詮机上の空論に過ぎなかった。
そしてこれだけ周りに騒がれていて注目を浴びている事を本人が知らない訳がない。
それを分かっているのか否か、彼は常に笑顔を絶やさず演技中の姿も至極スケートが楽しくてたまらないという思いを前面に出していた。
楽し気に軽やかに、時に優雅にしなやかに。
危なげなど微塵も感じさせないその滑りに、誰もが魅了されていった。

更に世界を驚かせたのは日本史上初の偉業を成し遂げた少年が、ただ一人でこの世界大会の場に降り立った事だった。
――既に国内試合でずっと単独行動を取っていたけど、まさか世界の舞台に行くときもコーチ不在だなんてね!――
これだけの実力があるならば、当然その技術を支えるコーチの存在に目が行く。
だのに国内試合も国際試合でも彼は常に一人でその傍にコーチはおらず、付き添いという形で隣にいたのは少年のバレエの先生だという中年の女性か親戚だという女性。
ジュニア選手の多くは家族に付き添ってもらってやってくるものだが、彼女たちは未成年の海外遠征を補佐する程度の付き添いだけで彼はリンクの上ではずっと一人だった。
普通の中学生ならば言葉も文化も違う所に一人で飛び込んでいくなど早々出来るものではないだろうに。
その肝の据わった行動までもが、少年の存在を更に大きくさせていた。
普通の中学生ならまだ英語をまともに喋る事など出来ないだろうから、必然と通訳だったり連盟と意思疎通出来るようにコーチが付いていたりするんだけど。
その点は彼がハーフだからなのか、記者達が舌を巻くくらいにナチュラルな英語で受け答えしていたのを見た時は驚いたな。
彼は本当にどこで生活をしているんだろう、日本じゃ何処にいたってそんなに流暢に英語を話せる場所なんて早々ないよ?
にしても一体どうやったらあれだけの滑りを世界中に見せつける事が出来るのか、そしてそのメンタルも支えているだろう背後にいるコーチは一体誰なんだろうか。

日本選手権優勝で手に入れた世界選手権の切符、そこでも彼は表彰台に立っていたんだ。
結果は銅メダルだったけどこのご時世に4回転を飛ばずに世界選手権という舞台で此処に立つだなんて信じられないくらいだよ!
ジュニアから突如参戦してきたダークホースに、世界中の誰もがその結果に驚いていた。
勿論それは先に彼の活躍を見ていた日本国民も同じだけど。
少し前の日本選手権の受賞インタビューで「まだ4回転は飛べませんが、世界の舞台でもいい結果を残したいとは思っています」と微笑んでいたその言葉をいともあっさりと現実にしていまうなんてね。
そしてそれがただの偶然や一時のものでない事を、彼はその後の人生で証明していったんだ。

大きく事が動いたのは少年が17歳になった時だ。
入矢君は13歳ですでに世界に通用するだけの実力を持っていた。
本来ならばもっと早くシニアに上がってきてもおかしくはないと言われてたんだけど、結局世界ジュニア3連覇の偉業を成し遂げた後にシニアへの転向を決めたようだ。
いつも通り彼の周りには報道陣が群がっている。
それでもこの5年間彼は頑なに秘密を語ることを拒み続けた結果か、ここ最近はそれを問い質す記者は居なくなっていた。
入矢君自身は自分を日本のハーフだという事は公然の事として認めていたが、己の両親のことに関してはそれ以上何も語ろうとはしなかったし、当然コーチの事もコーチ自身から公表の許可が出ないとの事でその名も決して口にしなかった。
彼の出生に関しては日本スケート連盟からも何も公表されていない為、勇利君の養子だとか未婚の子だという可能性も捨てきれないと豪語する解説者も居たのだが真実は不明のままだ。
分かっているのは入矢君の出身が九州地方だとされている事と、彼が日本人の血を半分持っているという事、そして目を引くその容姿だけだった。

「世界ジュニア3連覇おめでとうございます、勝生選手!是非来年の抱負をお聞かせ下さい!」
「…えっと、漸くコーチからのお許しが出たんで来年からはシニアで頑張ろうと思っています。」
「おぉ!!遂にシニアに上がるんですね!!
 シニアには4回転を飛ぶ選手も沢山居ますが、どう戦っていくおつもりですか?」
「周りは周りです、僕は今まで通り自分の滑りをしていくだけですので。
 4回転も種類を増やしている所なので、来期に取り込んでいけたらと思ってます。」

皆楽しみにしてて下さいね。
そうにこやかに会見をしたのが半年前の事だった。
遂にシニアに注目のダークホースが参戦してくる、誰もが来シーズンに期待を寄せていた。
かくいう僕もその一人だった。
凄く楽しみだった、今でも人を魅了する滑りと演技で観衆を沸かせていた彼が、次はどんな滑りを見せてくれるのだろうか。

遂に彼のシニアデビューを飾るシーズンの幕が開けた。
誰もが華やかな、青年に近付いていく少年の華やかな姿を待ち望んでいた。
ジュニア時代は端正な顔立ちながらも華のような笑顔とふわりと軽やかに舞う姿に、世間は天使がこの世に舞い降りたようだと称した。
氷上ではその透き通った蒼い瞳が殊更美しく見えることから、蒼い天使だと言われていた。
それほど彼が氷上で舞う姿は美しく流麗だった。
誰もが彼の更なる跳躍を、躍進を心待ちにしていた。
が、ジュニア時代の勝生入矢を知る者たちは、期待とは大いに違う入矢の姿に驚かされてしまう事になる。
秘密は頑なに守るものの、天真爛漫な明るい表情で関係者や記者とも受け答えしていた朗らかな少年。
時に茶目っ気たっぷりにファンサービスをする彼に、早くも多くの女性ファンが虜になった。
彼にはそういう明るい印象が強く、シニアに上がってくれば更にファン層は広まり黄色い歓声が上がるに違いない。
誰もがそう、思っていたんだ。



シニアの初舞台はアメリカ大会、およそ半年ぶりに現れた少年はまるで別人のようになっていた。
ジュニア時代には自由にさせていた鈍色の髪をワックスで整えていて、既に16歳の頃からその姿は大人の様相だった為一気に青年の色が増した。
混じった外国の血のお陰か同世代の日本人より随分と大人びた顔つきは、とても硬いものだった。
喜楽の色に満ちていた明るい夏の海のようなシアンブルーの瞳も、今は悲哀の色が強く寒の湖面を思わせるような温度の無い輝きに変わっていた。
何時でもにこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべていたあの少年は一体何処に行ってしまったのだろう。
誰もがその変貌ぶりに驚き、本当にあの勝生入矢なのかと皆戸惑いを隠せなかった。
そんな周りの視線など素知らぬ顔でジュニア時代と変わらず一人で会場に颯爽と現れ、精悍な顔つきで周りに物を言わせない空気を纏わせていた。
間近で見た僕ですら、あの入矢君なのかと本気で疑ったくらいだ、それくらい纏っている雰囲気が別の物だった。
SPが終了し、リンクから立ち去っていく彼の背中を必死に追いかけた。

「入矢君!!」
「……あぁ、加藤さん。お久しぶりです。」

付けていたイヤホンを外して僕の方を振り返ってくれたけど、その表情は最後に別れた時とはやっぱり別のものだった。
表情に色はなく、淡々と言葉を紡いでいるだけというか…そもそも彼はこんな声をしていただろうか。

「ビックリしたんだよ…イメージチェンジにしては随分と変えすぎというか…
 さっきもファンの子たちの呼びかけに全く応じなかったし、あれじゃ皆心配して、」
「心配?何のです? ファンサービスなんてあってもなくても僕が変わるわけじゃないでしょう?
 声援なんかなくったって、僕は十分戦える…」
「……入矢君?本当にどうしたんだい?君はそんな事を言う子じゃなかったのに。」
「…そんな子?僕が本当はどういう人間だったかなんて、誰も知らないでしょう?
 何を根拠にそんなことが言えるんです?」
「……入矢、くん…?」
「もう、偽るのは止めたんです。漸くこの舞台に立てた…後は結果が付いてくればいい。
 それで僕の目的は成就する。」
「目的……?」
「……加藤さんには色々お世話になったから、一つだけ教えてあげます。
 このグランプリシリーズの成績次第で、僕からコーチに打診しようと思っている事があります。
 もうそろそろ、良いんじゃないかなと思ってね。」
「…そろそろって、一体何を…」
「それは、まだ秘密です。」

以前のような華やかで柔らかい微笑みとはまるで真逆のような、口許は笑みを作っているがその瞳は冷たいままだ。
その様もどこか艶めかしく、人差し指を口許に当ててそう言葉を紡ぐと、彼はくるりと踵を返し足早に会場を後にした。
話してる間も僕はあの入矢君と話していただなんて何処か信じられなくて、暫くその場に放心状態で立ちすくんでしまった。

彼のスケートは圧巻だった。
今季から本格的に取り入れた筈の4回転ジャンプも以前から飛んでいたかのようにいくつもの種類を軽々と飛んでみせて、高さや回転数も申し分ない。
お馴染みのステップシークエンスには更に高難度の技を取り入れており、完成度の高い演技に誰もが感嘆の息を漏らす他なかった。
当然のようにアメリカ大会では金メダルを掻っ攫っていき、次に登場した中国大会でも同様に表彰台の頂点に立っていた。
ジュニア時代に黄金時代を築いたとしても、そのままシニアで通用するとは限らないというのに。
シニアで活躍していた数多の選手たちも予想以上の精鋭に舌を巻いた。
また決してそのメンタルは崩れることはなく、目立った失敗はおろか常にGOEは加算に次ぐ加算だ。
長く一人で世界で戦い続けた者の貫禄とでも言うべきか、ライバルたちがどんなに素晴らしい演技をしようとも簡単に往なしてしまった。
中国大会のエキシビジョン後、各国から多くの取材陣が殺到する。
いち早くグランプリファイナル出場を決めた初出場の選手に、世界が注目している。
先のアメリカ大会では殆ど口数もなく取材陣を早々に巻いていたのだが、今回は呼びかけに対して立ち止まり視線を向けた。

『優勝おめでとうございます!
 いよいよ次はグランプリファイナルになりますが、意気込みを聞かせて頂けませんか?』
『やっぱり、狙うのは金メダルですか!?』
『何故この状況になってもコーチが居ないんですか?!この場に来れない理由でもあるんでしょうか??』
『ジュニア時代の華やかな天使のようなイメージを一転させたのには、何か作為があるんですか?!!』

矢継ぎ早に英語で投げかけられる質問の数々に、視線だけを向けて聞き取っていた素振りを見せるものの、その熱気が収まるまで口を開かない。
彼がジュニア時代も一人で海外の取材に対して流暢な英語で受け答えしていた事は周知の事実なので、分からなかったという事はないだろう。
だが、投げかけられる視線の重圧に徐々にどの国の取材陣も発せられる言葉を待つように、しんと静まり返った。
音が止み、その言葉が通るようになったタイミングで、徐に口を開いた。

『勿論、優勝は狙います。競技者であれば誰もがそうでしょう。皆頂点を目指していますから。
 細かい事は言いません、僕はフィギュアスケータですから全てスケートで返しますので、グランプリファイナル
 が終わるまで見守っていて下さい。……あぁ、それと。』

そこで一旦言葉を切って、少し考え込むような仕草から薄く笑みを浮かべた。

『もし、グランプリファイナルで相応の結果を残せたら…僕らの事をお伝え出来るかもしれません。
 漸くコーチが首を縦に振ってくれそうなので…まぁ、それもファイナルの結果次第ですけどね。』

今の僕の事については、その時が来たらお答えします。
軽く手を振ってその場に居る者に終わりだと告げ、足早に去っていく。
まさかの言葉に皆咄嗟に動くことが出来ず、一時の間を空けて周囲が激しく騒めいた。
遂に明かされる日が来るかもしれない…!これは一大事だと各国の取材陣が慌てふためいていた。
既に彼の叩き出している得点は他のファイナリスト候補達よりも頭一つ飛び出るほどのもので、彼が大きく崩れない限りは表彰台は確実だろうとみられているからだ。
一方で僕は彼の最後の表情が脳裏から離れなかった。
少し結んだ口許は何処か妖艶で、去年までの彼とは違う別人が乗り移ってるんじゃないかという錯覚に捕らわれる。
もし彼の言った“偽るのを止めた”という言葉が本当ならば、今の彼が本当の姿だったという事になるだろ?
本当にそうなの?だって君はあんなに楽しそうに滑っていたじゃないか。
あの笑顔が嘘だったなんて僕には思えない。
一体何処から?何処から君は変わってしまったんだい……?



グランプリファイナルの幕が切って落とされ、世界中の観客がその結果に息を呑んだ。
他のファイナリストもシーズンベストやパーソナルベストを次々と更新する迫真の滑りをしていた。
にも拘わらず最終的に頂点をもぎ取ったのはやっぱり入矢君だった。
シニア初出場にて初優勝、ジュニア時代からの計算だと4年間無敗の王者となっていた。
この結果であれば先のインタビュー通り真実を明かすことが叶うに違いない。
フィギュアスケート界の歴史を大きく塗り替えるだろう存在を支えているものが一体何なのか、明らかになる日がやってくる。 沸き立つマスコミや観客を鎮めるのに各国のスケート協会は必至だった。

優勝直後のインタビューで、エキシビジョンで自分の一番大事な人のプログラムを滑ると彼は公言した。
それが全ての答えになるから、まずは見てほしいとそう告げた。
日を空けて開かれたエキシビジョン会場で、入矢君は今までとは違う装いで現れた。
スーツスタイルの衣装は腰回りに刺繍が施してあり色は濃紺と黒、襟元はスパンコールを散りばめているのかキラキラと輝いている。
彼はジュニア時代からどちらかというと明るい配色でもっとキラキラふわふわしている衣装を多く好んで着用していた。
シニアに上がってからは落ち着いた配色になったが傾向としては大きく変わっておらず、このような男性的でスマートな衣装は今まで見たことがない。
彼は直前までエキシビジョンで滑る演目を未決定としていた為、曲名が会場に明かされることなく再生のボタンが押される。 ピアノが奏でる優しく煌びやかな旋律が、スケートリンクに響き渡った。

流れるように音が重なっていく。
しなやかに滑り出したかと思えばその表情は慈愛に満ちたような恍惚としたもので、音を奏でるようなスケーティングに観るもの全てを惹きこんでいった。
音楽は何か物語を綴っているかのように流れ、その癖滑っているプログラム自体はかなり難易度の高い構成だった。
特に一番最後に見せた4回転フリップには会場が沸き立った。
4回転ジャンプの中で難易度の高いジャンプを、体力も尽きてくる演技の最後に飛んでくるだなんて何てプログラムなんだ!
これ、FSで滑ったプログラムよりも技術点間違いなく高いよね?!
なんて驚いてるのはきっと僕だけではない筈だ。

滑り終わった後に会場の関係者が予め用意をしていたのだろうマイクを受け取り、リンクの中央に再び静止する。
相変わらず昔の柔和な雰囲気は出さないものの、幾分か緊張の糸が緩んでいるのか表情は穏やかだった。
彼が今しがた滑り終えたプログラムはスケート協会の重鎮ですら初めて見るものだった。
大事な人のプログラムだというのに、誰もがそのプログラムを見たことがない。
つまりこの曲は彼の出生に何等かの関係があるという事だろうと皆考えていた。

『このプログラムはあるスケーターが、自分の生涯を表し、己の全てを込めたプログラムです。
 自分のスケート人生を表現し、その身体で体現した己の至高を極めた作品です。
 最後の時に滑ろうと密かに準備をしていたけれど、結局それは叶わなかった。
 世に出る事はなく、今日僕が滑るまで誰も知らないプログラムとなっていました。
 ……僕の最愛の母が、生涯を掛けて作り上げた渾身の作品です。』

その言葉に会場がざわついた。
今までただの一度たりとも語られなかった、彼の身内の話。
言葉を紡ぐその表情は憂いと哀しみを含んでいるように見える。

『何故滑ることが出来なかったか。それは母が弱かったからじゃない。
 世界で戦える実力もあったし、現役時代にはグランプリファイナルにも出場した実力者だった。
 ……滑ることが出来なかったのは、ある国の欲に塗まみれた思惑に翻弄され、人生を狂わされたに他ならない。
 もっと滑りたかった筈なのに…もっと輝いていたかった筈だったのに……
 母は夢半ばでスケートを諦めざるを得ませんでした。』

悔しさと悲しみに満ちた声に、会場だけでなく放送を見ている世界中の人が息を呑んだ。

『代わりに母は僕を産み落としました。
 自分が生きてきた証として…番である父との、愛の証として。
 己の命を更に削る事になるとしても、母は自分の残りの人生よりも僕を選びました。
 だから僕はこうして此処に立っています。
 母が選んでくれたから…今こうして僕はこの世に生まれ、こうして生きています。』

番という言葉にどよめきが起こる。
その表現は入矢の母がΩであった事を示す。
フィギュアスケーターで、グランプリファイナルに出場した実力者で、Ωの選手なんて過去に一人しか存在しない。
そう、彼と同じ姓を持つ、日本人のスケーターしか、いないのだ。
会場に衝撃が走った。

待ってくれ、今の話が本当なら…もう勇利君は、この世に……
加藤の頭の中は真っ白になる。

『この曲の名前は、Yuri on ICE。自分の最後のプログラムとして、母が父と一緒に作り上げたプログラムです。
 母がまだ元気だった頃に滑った映像だけが、この作品が存在していたことを証明するものです。
 …これからは僕が証明していきます、勝生勇利が素晴らしいスケーターであった事を。
 決して一国の野望の為に、振り回されてはいけない存在であったという事を…』

静かに紡がれていた声が、段々力強くなっていく。
哀の色から徐々に怒りと憎しみが現れてきたかのように、深みのある低音の声。
最早去年まで見せていた愛らしい彼の姿など、何処にもなかった。

『……母は実力こそあったけれど、父との接触を恐れられて意図的に離されていた。
 同じ大会に出場しないように、巧みに仕込まれて…時には成績ですら捻じ曲げられた。
 本来ならば手にしていたはずのメダルも、全て父の栄誉を守る為に取り上げられていた…
 世界中の人が見ている場で、何度も陥れられたんだ!
 けど、母は父を愛していたし、自分の為に彼が縛られている事も理解していたから!
 理不尽だと分かっていても、全てを受け入れていた…!!
 ……運命の番なのに、傍にいる事は疎か言葉を交わすことも、姿を見る事も叶えられなかったというのにね!!!
 母は身を切り裂かれるような思いを押し殺しながら滑り続けて……そして、短い生涯を終えた。』

驚きを隠せない。
まさか世界中が見ている大舞台で、そのようなことが本当に行われていたのかと。
確かに勝生勇利は現役時代に番がいると公表していたが、それが運命の番であり、またその番もスケーターであったという事。 しかし大会の裏ではΩである彼に全ての負荷を負わされ、そしてそれが原因で命を落としたのだという事。
運命に限らず、番になったαとΩの繋がりは皆が知っている公然の事実だ。
αに先立たれた、若しくは傍にいる事が出来なくなったΩの寿命は極めて短い。
彼の身に与えられていた心痛に堪えない苦行を明かされ、観客は非常に困惑し、スケート連盟は動揺を隠せない騒めきだ。
途中から慌てた連盟の誰かが指示したのだろう、彼のマイクの音が急に止んでしまった。
それをすぐさま察知した彼は、己のありったけの声量で会場に強く語りかけていた。

『僕の目的は2つある!
 一つは、母が!勝生勇利が本来手にする筈だったメダルを!栄光を!母の母国である日本に返す事!!
 僕が身をもって証明する!母が素晴らしいスケーターであった事を!!
 母が滑ってきた数々のプログラムを、僕が最高の仕上がりで再現していく!!』

両手を大きく広げ、此処に己が居るんだと強く表現する。
鋭く前を見据えた眼光は、まるで全てを射貫くかのような力強さを見せる。
会場に響き渡る意志の強い声が、真っすぐに多くの人の胸に刺さっていく。

『そしてもう一つは、僕の父が己の祖国の為に築き上げた偉業を、この手で塗り替えることだ!!
 僕はこれからどんな事があっても勝ち続ける!!
 今日がスタート地点だ…年明けに開催される世界選手権、此処から僕の復讐が始まる…!!
 母の命を犠牲にして築かれた、父の世界選手権5連覇の壁は、僕が破る!!!』

その言葉にも更に会場が大きくどよめいた。
世界選手権の連勝記録はおよそ20年ほど前にある男が作り上げたっきり、未だに破られていない。
偉業を打ち立てた、氷上の皇帝と呼ばれた男を…彼はたった今、父と呼んだのだ。
そしてそれが、母親の命を犠牲にしたと称された事によって、偉業が罪過の所業だったと告げられる事になる。

『…此処まで言えば、僕が誰なのかもう分かっただろう?
 僕が日本に帰化する前の名前は、イリヤ・ニキフォロフ!』
【…イリヤ・ヴィクトロヴィチ・ニキフォロフ。それが僕の名前だ!
 もう、とっくの昔に捨てた名前になるけどね。】

突如ロシア語に切り替わった事で更に動揺の波が大きくなった。
同時に現れた彼の以前の姓に更に会場が沸き立つ。
日本人である僕にはどのくらい流暢にロシア語を喋っているのか些か判断に困ったが、聞いている限りロシア選手の喋っている感じと大差はないように感じた。

【僕は、お前たちロシアが僕ら家族にした仕打ちを、決して許さない…!
 これはお前たちが、自分たちの国の威信を守る為に、一組の番の運命を翻弄した事によって受ける罰だよ!
 身をもって知るが良い…!! 運命の番の間に生まれた子が持つ、その素晴らしい能力ちからを。
 これからその能力ちからを持つ僕が、父を使ってお前たちが築いた軌跡を、一つ一つ壊していくんだからな!!】

ロシア語の分かる人間だけが驚愕に満ちた表情で全身を強張らせる。
他の語圏のメディアは内容の解読終われ、怒気の増した彼の声音だけがメディアを通じて流れていく。
僕にも何を言ってるのかさっぱりだったけど…今確実に、彼はロシアに向かって何かを宣言をした。
彼の怒りにも哀しみにも似た、狂気的な恍惚とした表情を見るだけで、全身の血の気が一気に引いていく。

『僕は決して負けない。どんな敵が現れようとも、頂点を極める事が僕の使命だからだ。
 負ける気はしないよ、僕には母がくれたこの身体とステップが、父の類稀なるスケートの才能があるんだから。
 そして父がコーチとして直々に、僕のスケートを更に磨き上げてくれる…これからもね。
 世界中のスケーター達には悪いけれど、僕には命を懸けて証明しなければならない事だから…』

誰にも頂点の座は譲る気はないよ、ごめんね。
目を閉じて息をし直した彼が紡いだ言葉は、感情の波が穏やかになったとしてもとても重く感じた。
世界中の誰もが隠されていた真実に、彼の本気の決意に驚く。
彼はこれから何処まで行くというのだろう。
僕は困惑の中で彼に聞かなければいけないことが山ほど出来たという事だけを確信した。


イリヤとはヘブライ語で《ヤハウェは神なり》を意味する所から来ている。
《ヤハウェ》とは旧約聖書に現れるイスラエルの神の名だ。
そう、僕が目指すのは《生ける伝説リビングレジェンド》と言われた父さんの更に上の次元。
父の偉業を超える事によって、僕はこの世界スケート界の神になる。
その為に僕は生まれてきたんだから。
氷上で微笑むその顔は自信と確信に満ちたものだった。



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この話が全ての発端でした。まさかこれをキッカケに大型連載になるとは(笑)
この話だけでは主人公の入矢が凄く怖い性格になってしまうので…
裏話に当たるものが次の「神が御心を捧げた日」になります。
入矢君の本心を知れば、彼がただの復讐者ではないことが分かるかと…!!